1178年 パリ 二十歳の静かなる熱情(まとめ)

いままで書いてきたように、中世の大学とは外見上かくもみすぼらしいものであった。
全ヨーロッパの若者のあこがれのパリ大学が、それこそ寺子屋以下だともいえるものだった。
書物はまだ書写一本の時代で、大きな変化はグーテンベルグの活字印刷まで待つほかはなかった。
しかし本の少ないゆえに、議論がいっそう活発だった。
あいついで行われる公開討論の人気は、今日の音楽会以上のものだった。
さらに大学は十二世紀に始まった国家の発達とともに、豊富な就職口の関門となっていたのである。教会についても同じであった。
ローマ法、教会法はもっとも売れ行きの良い学問だったし、医学・神学もそれに次いだ。
七自由学科(三学=文法・修辞・弁証、四課=天文・幾何・算術・音楽)これらの専門の予備過程であるとともに、それ自体が高級の就職のための必須条件であった。
 
当時の師、シャルトルのベルナールは言った。
「我々は巨人の肩にとまったこびとのようなものだ。我々は格別すぐれた眼を持っているわけではないが、(巨人の肩を利用することによって)巨人よりも遠方を見ることができる」、と。
巨人とは古典文化、こびととは中世文化をさす。
まことに条件に恵まれぬ当時のヨーロッパであったが、世界を征服するヨーロッパ学問の萌芽は、この言葉のうちに力強く宣せられている。
それがまたパリのプチ・ポンからカルチェ・ラタンに広がった精神なのであった。
 
アレクサンダー・ネッカムはパリでの勉学が実り、ここで教師としての名声を博した。
その後故国イギリスに帰り、母校ダンスタブルで教鞭をとったのち、同地のアウグスティヌス修道院の院長となり、1217年に亡くなる。
中世文化がもっとも独自の展開を遂げた時期の人であった。
 
(大世界史 7 から引用しました)