バルト三国 歴史紀行 Ⅰ
エストニア EESTI
原翔 著
彩流社 発行
2007年5月31日 初版発行
エストニア国内を細かく周っているだけでなく、国境近くのロシアの街も訪問しています。
1997年頃の旅と思われますので、貧しい面が多く見られます。
自分は2001年にエストニアを訪問しましたが、まだソ連の名残を感じました。
現在ではIT先進国としての話題がよく聞かれます。
著者の方は製鉄会社のプラント部門で、ソ連・東欧を担当しておられたそうです。
お名前は ペンネームでしょうね。ロシア語のハラショーから取ってると思います。
まえがき
バルト三国 が12世紀末から18世紀初頭まで ドイツ、 デンマーク、スウェーデン、 ポーランドなどのヨーロッパ 勢力に連続して支配されてきているのは事実である。 だが人々が「現在の三国がヨーロッパに帰属する」というのはそうした歴史を強調したいからではなく、恐怖の鮮明な記憶が残るソ連支配の世界からの完全な絶縁と、そのソ連が崩壊後も依然として 強大な軍事力を保持しているので 、ヨーロッパに帰属しなければ安全保障の面で決して安泰ではおれないとの思いからのものだと私は考えていた。
バルト三国の歴史 概要
1238 タリンが自由都市になる
1285 ハンザ同盟に加盟
スウェーデンはポーランド内陸に攻め入って勝利を収め(1626)、 アルトマルク条約(1629)でダウガワ川以北の地の支配を確定させ、 ヨーロッパではドイツ北部を抑えて バルト海 南岸をも手中にする。スウェーデンはこうして バルト海を内海とする「バルト帝国」を設立する。
ウクライナから逃げ帰ったカール12世はその後のヨーロッパでの戦いに負けて、 バルトの地を明け渡す(1721)ことになった。 スウェーデンのバルト帝国はこうして終わり、 代わってロシアがエストニアとクールラントを含んだ ラトビア全土を支配することになった。
エストニア語はフィンランド人にはフィンランド語を縮めて発音しているように聞こえるらしい。
エストニア人が狩りをやめて家畜を飼い農耕 を始めた頃、 北欧の人たちはエストニア人を ノルマン語で「東」を意味する「アエスティ」という名前で呼んでいる。エストニアの正式国名は「EESTI」だが、それはこれに起因している。
ソ連時代の1965年にヘルシンキとタリンの間にフェリーが運行されるようになった。当時のフィンランドではアルコールの購入に制限があったから、 週末にフィンランド人は酒を飲むためにタリンに渡っていた。
エストニア国旗は青が海と空で平和と希望を表し、 黒は大地でパンのために熱心に働くことを意味し、白は国の将来の平和と繁栄を願うという三色旗である。
タリン は当初 デンマークに支配され 北欧のルンド大司教 に従属する 司教の街であったが 、実態は彼らに拘束されることなく ハンザ同盟に加盟するドイツ人の自由都市として存在していっている。 その後 ドイツ 、スウェーデン、 ロシアと支配者は変わるが、常にドイツ人が主体の都市であり続けてもいる。
エストニアにはゴルフ場は1つしかなかった。ニートルベルヤのゴルフ場である。
ソ連当局がチェルノブイリ事件を発表する以前にエストニアの人はフィンランドからの放送で知っていたのだ。
タルトゥは人口規模では第2の都市だが 文化面からすると エストニア 第1の都市である。この町の1632年に創設されたタルトゥ大学は エストニアの科学者や文化人を多く輩出している。タルトゥはエストニアの精神文化の中心都市なのだ。
ビーフストロガノフはアレクサンドル・ストロガノフ伯爵が年を取って歯を悪くしたので彼の料理人が考案したという牛肉料理である。
エストニアとロシア 国境のベイプスィはチュド湖の名前で有名である。 1242年にロシアのアレクサンドル・ネフスキーが ドイツ騎士団に大勝した氷上の戦いの現場だからだ。
ナルヴァは エストニアで3番目に人口が多い町である。フィンランド湾から14キロ ばかりナルヴァ川を遡った内陸にあるこの街はエストニアで工業化が最も進んだ地域の中心地だが、特徴のないソ連時代の建物ばかりが並ぶ街である。
ナルヴァ城のすぐ北側にナルヴァ川をまたぐ 国境の橋が見える。
大相撲の力士把瑠都は ラクヴェレ 郊外の小さな村の出身だそうだ。
エストニア南東部に住むバルト・フィン語族のセトゥ人。ヴァルスカという村が中心
ロシア側では、ペチョールイがセトゥ人のかっての中心地
そのペチョールイからエストニアに入るのはタクシーだけ。タクシーの何台かが自由に国境を越えることができるが、これは車に許可が与えられているのではなく、家族にエストニア人がいるロシア人の運転手が、ロシアとエストニアの二つのパスポートを持っているため。
ロシア側の検問所の建設費はドイツが支出した。
エストニアがEUに加盟するためにはロシアとの国境の画定が必要だから、EUはエストニアが国境線を後退させること前提に資金を提供した。
エストニア料理はドイツ料理を基礎に周辺の国の料理が融合してできたもののように思われてくる。
エストニアやロシアはジャガイモが旨い
エストニアとフィンランドは同系統の民族のせいか、国歌のメロディーは99パーセントが同じ。
それでもフィンランドへの関心は彼らにとって次元の低い問題のようだ。
デンマークは西側の雰囲気が強く、スウェーデンではその程度が弱まり、東のフィンランドにいたってはほとんど東側の国の雰囲気である。
エストニアの若い人が外国に出かけるようになると、商売を志す人の多くはフィンランドよりもスウェーデンを選ぶらしい。