それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影

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それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影 表紙

 

それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影
六草いちか 著
講談社 発行
2013年9月3日 第1刷発行

少し前にこのブログで紹介した「鷗外の恋 舞姫エリスの真実」の続編とも言うべき本書です。エリスのその後について、鷗外の作品なども織り交ぜながら、更に探求を深めていきます。

序章 続きのはじまり
鷗外の次女杏奴が母から聞いた回想の中に、鷗外が「この女」とその後長い間文通だけは絶えなかったという一文。あんな別れ方だったのに、なぜ文通したのだろう?ひょっとしたら、エリーゼは鷗外の子を産み、ひとりで育てていたのではないか?という疑問。

舞姫の登場人物と、実在のモデルは同じような名前なのに、太田の親友の相沢謙吉だけは賀古鶴所と全く違う名前。

賀古も参加した山縣視察団には、古市公威内務省の二等技師として参加していた。p25

 

第1章 エリーゼは鷗外の子を産んだのか
1 森家の不思議な海外送金
鷗外の母の日記などから、鷗外は毎日かならず、独逸に、八十円などの送金の事実。しかし詳細は不明。

2 戸籍役場に行きなさい
まず教会の記録を探す筆者。だが見つからない
再開した”墓地の彼女”に戸籍役場に行くことを勧められる。

3 クララの子ども
エリーゼの妹クララの子どもが見つかる
フルネームは「ゲルハルト・アルヴィン・エルンスト」
舞姫』エリスの亡くなった父親の名と同じ

 

第2章 ままならぬ思い
1 鷗外の再婚をめぐって
エリーゼの帰国後、母に押しきられ、登志子と結婚
1890年9月、長男於莵が生まれるや、於莵を引き取って離縁
1902年1月、志げと結婚

エリーゼの住所帳
出版年1903、申請年1902まではLucieで帽子製作
出版年1904、申請年1903にはEliseで縫製業に戻している
鷗外の再婚と関係あるのだろうか?

 

2 行きは「姫君」、帰りは「賤女」
独逸の鷗外は充分な資力があったのでは?

エリーゼの一等客室に乗り合わせた人たちの中に生田益雄という留学生。ベルリンの下宿先が鷗外の知己の場所。彼にエリーゼエスコート役を頼んだのでは?

エリーゼの帰りは、最初は一等だったが、途中で二等に変更されている。予算の関係か?

3 モノグラム型とカフスボタン
「ぼ鈕」(ぼは手偏に口)という詩にみるベルリンで買ったぼたんへの熱い想い

 

第3章 ベルリン余話
1 橋本春の恋
エリーゼ=賤女説は全くの誤報
また賤女の相手は橋本春とされたが、当時「賤しい女」とは働く女たち、親の資産や夫の収入で優雅に生活するのではない、自ら職業をもち収入を得る女性たちはみんな、当時の上流階級の尺度では「賤女」なのだ。
春も鷗外も普通の家庭のお嬢さんを好きになり、真面目に交際していた。
また春は女が原因ではなく、過度の勉強がたたってしまった。

2 梅錦之丞の忘れ形見

 

3 考証・鷗外の下宿
鷗外第三の下宿は現存しない、という噂は『新説 鷗外の恋人エリス』の中で爆撃を受け破損した家屋の写真が掲載され、それから建物が取り壊された、という噂が一人歩きしたのではないだろうか?p140

ベルリン森鷗外記念館は森鷗外第1の下宿であるという情報、およびマリーエン通り32番地にあった鷗外の下宿がルイーゼン通り39番地から入る造りに建て替えられたという情報は、事実無根だった。p171

 

第4章 うしろ姿が見えてきた
1 エリーゼは結婚していた
エリーゼは38歳で結婚した。
夫のマックス・ベルンハルトはモザイーシュ、ユダヤ人だった。
エリーゼは1953年没だった。

2 妹エルスペス
エリーゼはクララとの二人姉妹ではなく、エルスペスという十歳年の離れた妹がいた。

エリーゼの夫マックスは1918年12月31日に亡くなっていた。

3 地図を広げた石の段
鷗外ら家族が使っていた日在(ひあり)の別荘
鷗外は亡くなる前年(1921)、そこの川岸でわざわざ夜に地図のようなものを広げて、提灯を置いてしきりに何か探していた。
ベルリンの地図で、妻を傷つけないために隠れて探していたのではないか?

 

第5章 あともう一歩
1 ユダヤ人墓地へ
エリーゼの妹エルスペスの夫の名はリヒャルド 

2 『普請中』と『即興詩人』
『普請中』は再会に見せかけた隠れ簑?
妻を安心させるため? 

3 マックスの墓
ユダヤ人墓地のマックスの墓
他の墓石には、故人の名前と日付だけ記したものが多いなか、マックスの墓には「私の愛する夫マックス・ベルンハルトは、ここに、神のもとに安息する」と刻まれていた。p274

 

第6章 その面影に
1 「暗号」の幻
エリーゼが住所帳に「ルーツィ」と名乗っていたことが妙に気にかかった。もしかして「ルーツィ」はふたりの間で決めた暗号だったのではないかと。p288

2 ああ、ルーツィ! ルーツィだ
エリーゼの妹エルスペスの息子クルト
そしてクルトの息子フェターさんにたどり着く

3 エリーゼの写真
フェター家を訪問。エリーゼの日本風ティーセット、エリーゼの写真を見る。
ルーツィと呼ばれていた理由は不明
エリーゼが日本に行ったことは知っていた。
子供はいない、と即答したが…
埋葬された墓地も不明
エリーゼは二つ目の名前からマリーとも呼ばれていたため、マールチェンとも呼ばれていた。
長女の茉莉はそこから来ていた?

 

終章 つらいことより喜びを
1919年1月1日付のベルリナー・ターゲブラット紙に掲載されたマックスの死亡広告
冒頭に死亡広告には見られない「書状に代えて」の一言
ルーツィだけでなく、旧姓のヴィーゲルトも書いてある
広告の多くは葬儀の場所を知らせるだけだが、エリーゼは住所も書いてある。
そしてこの新聞は鷗外が定期購読していた。

1944年3月、第二次世界大戦中、エリーゼからエルスペスに書かれた手紙。
このような苦しい状況でも、二度も「幸せ」という言葉を書いている。なんと強い、なんと美しい精神の持ち主なのだろう。
鷗外も彼女のこういったところに惹かれていたのではないか。