鷗外の恋 舞姫エリスの真実

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鷗外の恋 舞姫エリスの真実 表紙

鷗外の恋 舞姫エリスの真実
六草いちか 著
2011年3月8日 第一刷発行
講談社

森鷗外の「舞姫」のエリスのモデルとなった女性の真実を、現地ベルリンで挫折を繰り返しながら探索した、貴重な記録です。

鷗外の実の妹である小金井喜美子によるエリスのイメージ
美人ではあるが、人の話を真に受ける、どこか足りないと思えるほどお人好しの哀れな女。エリス=路頭の花
この虚構が崩れるきっかけ
星新一(ショート・ショートで有名・小金井の孫)による『祖父・小金井良精の記』
この本により、エリスは名前を失い、喜美子は信用を失った。
そして翌年1975年、石黒日記が発表
この中で、鷗外は石黒に恋人の来日予定を報告するなど鷗外の苦悩がわかる。
1981年、海外航路の乗船員名簿から、鷗外の恋人の名Elise Wiegertエリーゼ・ヴィーゲルトを発見

 

エリーゼは一等船室に乗っていたことにより、旅費は誰が払ったかという問題
エリーゼ=裕福な家庭の娘」説も出てきたが、鷗外が支払う余裕もあったかもしれない。

エリーゼ=賤女」説はドイツ滞在中の小池正直が石黒に宛てて送った手紙が朝日新聞紙上で省略され過ぎたためによる誤報

エリーゼユダヤ人人妻」説は1989年のテレビ番組が発信源
名前が似ていただけ。船室名簿ではすべて未婚のMiss
番組内でさらし者にされた、エリーゼ・ワイゲルトさんが気の毒

更なるユダヤ人説について
ヴィーゲルトという姓自体、六十万人のユダヤ人の中でわずか五人しかいなかった。
そしてベルリンにはユダヤ人街、いわゆるゲットーは存在しなかった。

 

ドイツの名付けの習慣では、現代でもファーストネームを二つ持つことはよくある。戦前までは当然だった。鷗外の時代には最低でも二つ、一般的には三つ、中には五つ以上も持つ人もあった。p93

エリーゼは森家によって追い返されただけで、喜美子も「旅費、旅行券、皆取り揃えて、主人が持っていって渡した」と書いていることから、出発時点では片道の日本行きだったと考えるのが妥当p116

調査に行き詰まった時、エリーゼの立場で考えてみる筆者
…ハンカチイフを振って別れたのは私がバカだからじゃない。あれは精一杯のプライドだった。金さえ握らせれば片が付くと思っている小金井のような男の前でなど絶対涙を見せたくなかった。私は負け犬ではない。毅然と帰ってきたのだ。だから泣き暮らしてばかりいないで仕事を探した。…十年後にはしっかりとした生活を送っている。で十年後の資料を調査する。p136

 

舞姫』発表時、鷗外のペンネームは「鷗外漁史(ぎょし)」だった。
ベルリンのシュプレー川沿いの料理店から、何舟もの小船が岸に寄せられひしめきあう様子や、飛び交うカモメを眺め、その姿を自分になぞらえ、外国から来た鷗、魚ならぬ西洋文学という史(料)を獲る鷗になぞらえて、「鷗外漁史」の名が生まれたのでは、という筆者の説
1870年以降、鷗が渡り鳥としてベルリンに飛来しシュプレー川で越冬しているとの記録も確認済みp225

堅信礼
12、3歳になると子どもたちは教会の聖書学校に通いはじめ、その後、クリスチャンであることを自分の意思で表明する儀式。
教会簿には洗礼などと共に記録に残っている。

 

エリーゼのフルネームはElise Marie Caroline Wiegert
1866年9月15日、シュチェチン生まれ、その後一家はベルリンに落ち着いた。p278
(シュチェチンは現ポーランド。自分がベルリンに行こうかと計画を建てていた時、国境を越えてこの街に行けないかなぁと思った記憶がある。結局ベルリンには行かなかったが)

鷗外の子どもの名前
杏奴(あんぬ)Anne
妻の反対にも関わらず鷗外が妻に隠れて届けを出した。 
エリーゼの妹アンナAnnaあるいは祖母のアンネAnneから?
茉莉(まり)Marie
エリーゼの二つ目、あるいはエリーゼの母親マリーMarieから?p288

エリーゼは当時の法律では21歳は成人であり、日本に行くにあたり親権者の承諾の必要はなかった。p292

 

鷗外はマルセイユの港からフランス船で帰朝し、エリーゼブレーメンの港からドイツ船で来日。
コロンボでは鷗外の10日後にエリーゼが入港しており、その時に託すべき本を残していた。
この一冊の本は、エリーゼが日本へと向かって来ていることを鷗外が好意的に承知していたことを裏付ける重要な証拠では?p295

帰国時のエリーゼが憂いを見せなかったのは、プライドと精神を持ち合わせた女性だったからだと思っていたが、実はエリーゼは本当に憂うる理由がなかった、つまり鷗外はとりあえず騒ぎを収めるためにエリーゼを帰国させたが、すぐにエリーゼの後を追うつもりでいたのではないか?p300-301

 

エリーゼが穏やかに帰って行った理由が鷗外との約束にあったとしたら、ベルリンで鷗外を待っていたエリーゼは、鷗外の結婚をどのようにして知ったのだろう。
エリーゼが帰国した2ヶ月後、鷗外の親友、賀古が、実際に山縣有朋随行して欧州視察へと旅立っている。
ベルリンを訪問した際、賀古はエリーゼを訪ねているのでは?p311

これまでの各氏の研究の中で、十分な調査が行われていなかったものとして教会簿調査を挙げることができる。
第二次世界大戦でほとんどの資料が焼失してしまったベルリンで、豊富な情報がそこに残っていた。p321