地名の研究 柳田国男 著

地名の研究 柳田国男 著 表紙
地名の研究
柳田国男 著
中公クラシックスJ65
2017年4月10日 発行

「過去への道標」を毀損してはならない 今尾恵介
東京の銀座は大半がニセモノ
そのエリアの大半が「本来の銀座」、少なくとも明治初年の銀座の範囲ではない。p16

ちょうど100年前のロンドンの地図で、通り名を現在の地図と比較してみると、その大半が現在も同じ名前を保っている。
これに対して、数回の地名変更を経た東京では、夏目漱石森鷗外永井荷風などの小説や日記を読んでも、今の地図では多くの地名を発見できない。P25

合併した新市名に苦労するなら、地名を変えずに合併すればいいのだが、これにはフランスの「コミューン」がヒントになる。p25
行政は日本で言う「広域事務組合」で近隣の村々と一緒に行われているため、歴史的地名を変更する必要が生じない。p26

 

地名の研究
地名の話
アイヌの地名のつけかたは単純にして要領を得ている。彼らは長い地名を意とせずにつけている。
これに反して我々の祖先は、はやくから好字を用いよ、嘉名をつけよという勅令を遵奉して、二字つながった漢字、仮名で数えても三音節、ないし五、六音節までの地名をつけねばならなかった。
そのため謎に近い地名のつけかたをするようになったのかもしれない。p15

支那人満州の平原などで村を作り、自分の屋号を地名として陳家屯・楊家塞・柳家店などと呼ぶのとは完全に反対で、我々の苗字はかえって居住地から出ている。p39

 

地名と地理
地名を調査してその一つ一つを解説し、または一般的傾向を要約した書物が西洋では多くの国に出ており、中にはそれ一つしか著書のない人もあるらしいが、そのためにこれを独立した一つの学問と見ることはできぬということである。p41

日本の地名の特色
・まず地名の分量が多く、したがってその変化の盛んなこと
・東西南北の一致がきわめて顕著であって、その発生の通則が見つけやすい

日本の地名は、隣国の支那とはちょうど反対で、かえって北ヨーロッパの国などと似ている。すなわち土地が居住者の携え来った家名によって名づけらる場合はほとんどなく、地名はかえって常に居住者の名前として利用せられていたのである。p57

 

地名と歴史
同じく地形を表示する単語でも、やはり必要に応じてつぎつぎに生まれてきたので、決して一部の論者の想像するように、大昔からすべて備わっていたのではない。p93
おいおいに人がつまり、または後から入ってきて若干の不利を忍ばねばならぬものは、ぶつぶつ言いながらも二等地・三等地に村をこしらえることになった。そういう時代になって、はじめて生まれたらしい地名もずいぶんあるのである。p94

 

地名考説
日本の地名を研究する者の第一に注意すべきことは、古来の用字法の誤謬である。p118

ある人の想像の如く地名が蝦夷起源なりとしても、国巣・土蜘蛛の語だったとしても、はたまた単に古いから忘れたにしても、とにかくそんな地名が口から耳へ、今までも伝わっているということは、日本ばかりの特色である。
たとえば英国の如くデーンがセルト[ケルト]を追い、ノルマンがサクソンを殺戮するという歴史であったら、地名はそのつど改まらずにはいない。
前住民といわゆる今来の民とが、やや久しい期間平和に共棲していたことが、必ずやこういう解しにくい地名の多く存在した原因でなければならぬ。p125

帷子カタビラと名付けた理由は、まったく一方山により、一方は田野をひかえているために、すなわち片平というのであろう。p144

 

岩の黒々と露出している部分が、一見いかにも顕著であるから、これに名のないことはあるまいと、聞いてみたら、ゴウロといいますと無造作に答えた。
その後気をつけてみると、自分(柳田)の生地、播磨神崎郡香呂村なども、これらしい。p170

奈良の都を平城と書くのを見て、ナラは当時の輸入の漢語であるように論ぜられた学者もあったがそれは誤りであろうと思う。
山腹の傾斜の比較的ゆるやかなる地、東国にては何の平といい、九州南部ではハエと呼ぶ地形を、中国・四国ではすべてナルといっている。p188

窪は漢語でも水たまりの義で、クボは『字鏡』にも土凹なりと記してある。すなわち小さな水田適地を意味する。ゆえに丘山の間の少しく広い耕地を、すぐに大久保・長久保などといって珍重する例が多いのである。p214

 

天橋立という語は、小式部内侍をはじめ多くの人が歌に詠んだほかに、『釈日本紀』に引用した『丹後風土記』の文にも見えているが、はたして今の地をさした地名か否かは疑いがある。それはハシダテといえば梯を立てたような険しい岩山をいうのが常のことで、その梯が倒れて後にこれを橋立というのは不自然なるのみならず、『風土記』に大石前とあるのが今と合わぬ。これはむしろ湾の外側の岩山のことであったのを、名称と口碑とがいつか湾内の砂嘴に移ってきたものと見られる。p265