柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学 Ⅱ 言語の地政学

Ⅱ 言語の地政学
第1章 国際連盟委任統治委員会
ジュネーブ赴任を了承した直後、諫早駅でプラットホームを幼児がよちよち歩いているのを見ながら、「あの子は西洋へ行かんでいいなあと感じてしまった」柳田さん。
(新しい世界は見たいが、一方でそれに対する不安や億劫さを感じる不安定な気持ちがよくわかります。情景を思い浮かべるとユーモラスですが)

第2章 国際連盟と使用言語問題
第一高等学校時代、柳田はドイツ語を第一外国語、英語を第二外国語にするコースに登録
英語・ドイツ語以外で書かれた西洋文学はまず英訳・独訳で読んでいた。
フランス語学習はフロベールアナトール・フランスなどの文学的関心からはじまった?
オランダ語はオランダ自体の関心よりも、オランダの植民地への関心によるもので、次弟・松岡静雄からの刺激による。
蔵書にイタリア語原著が加わるのはスイス時代から 
 
柳田にとって西洋言語は、彼方から貴重な情報や高度な文化を運ぶ魔法の絨毯だった。その牧歌的関係はジュネーブで終わった。
これ以降、柳田は洋書を繙くたびに、言語が国家や民族の力関係に貫かれていること、外国語の教養自体が言語間の不均衡な力関係を発動させ、強化する装置であること、つまり自分自身の学問が日本と西洋の不平等な地政学的関係に不本意ながら加担していることを、強く意識せざるを得なかった。p141

第3章 エスペラント
スイス時代以前、柳田がエスペラントへ言及したテクストや、エスペラントに関わったという逸話は見られない。
国際連盟の使用言語が英語とフランス語に限られていたことに対する反発や問題意識が、エスペラントに接近する動機となったのは明らかである。

柳田は、日本人がエスペラントを話すことだけでなく、エスペラントで書き、日本の情報や意見を海外に伝え、知的輸入超過の改善されることを期待していたと思われる。p146

柳田が西洋のエスペランチストとの交流を通じて学んだのは、エスペラントが大国の圧力によって共同体を離れた非常民の支えになっているという事実ではないだろうか。
この頃の柳田の周囲には、妙に東欧からの移民やユダヤ人が目立つ。p169

第4章 島と大陸
当時、ジュネーブには沖縄を研究したチェンバレンがいたが、日本人の面会願いを斥けたという話を聞いていたので、面会の申し出を慎んだという。

当時、日本/沖縄/その離島の間に見出だされている「鏡餅」状の差別構造は、西洋/日本/南洋群島の間に見出だされているコロニアルな差別構造と類比的である。p186

第5章 言語地理学
柳田が国際委任統治委員として直面していた「言語の問題」
・彼自身の英仏語による討議能力
委任統治領における国語と原住民の多種多様な言語との間にどのような関係を築くのが望ましいか

播州出身である柳田にとって、標準語ないし東京語は意識的に習得された言語であり、播州訛りから脱することはできなかった。とはいえ、官僚として地方を旅行した時には、あくまで上位から方言使用者に面する東京の標準語使用者だった。
それが西洋に来た途端、柳田の日本語は、否定しがたく東の果ての孤島の原住民の言語へ反転してしまったのだ。p203

フランスの言語地理学
特定言語の方言的ヴァリエーションの分布状態に基いて言語学的考察を行う。広域に及ぶ規則的な方言採集を行い、特定単語の異称や対応関係にある音韻などの分布状態を地図上に表記する。そうして作成された言語地図を基に、社会的・地理的条件なども考慮しながら、言語変化の順序、変化を阻む要因、変化した要素の伝搬経路などを推理する。p205-206