民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造(後半)

第五章 挫折と訣別
柳田の唐突な国際連盟委任統治委員辞任の理由は?
・言葉の問題。柳田は英仏独語を読むことはできたが、会話は苦手だった。
委任統治委員会が新渡戸や柳田が思い描いたような原住民保護の理想とは程遠い、形式的なものだったことも大きいのではないか
・日本政府の対応の拙劣さへの批判
・柳田と現地外務官僚との不和

このときの柳田の辞任を契機として、柳田と新渡戸は訣別し絶交し、その関係が修復することはなかった。

英仏語が国際連盟を支配していたことに対する、新渡戸と柳田の見解の相違
新渡戸は「民族自決」という国際連盟の掲げた理想を信じてそこに身を賭したが、柳田は西欧によって支配された国際連盟の現実に失望し、すっかり戦意を失ってしまった。

新渡戸によって導かれたことにより、柳田の眼は「世界の中の日本」へと開かれ、文化相対主義へ接近し、柳田の学問は「一国民俗学」へと大きく屈折していく。

第六章 「一国民俗学」の意味
帰国後の大正末から昭和初期
柳田の民俗学において、山人や非差別民や漂泊的宗教者への視点が著しく後退し、かわって、稲作農耕民を中心とした常民の生活が彼の研究の対象として前面に出てくる。

柳田のジュネーブ経験により、
ジュネーブ大学での聴講や、海外の研究者との交流を通して、ヨーロッパの進んだ学問、とりわけエスノロジーの新潮流に触れた
・各国を旅行して大量の研究文献を購入

「同胞の間の伝承を採集調査する」学問と
「どことなく広く多民族の生活を記述する」学問の区別を
ドイツ人の発明としている柳田p146

「日本の民俗学」での柳田の主張
宗主国の研究者が植民地の文化を調査・研究することへの強い批判
文化研究に政治的な力学を持ち込むことこそが、文化相対主義に反するのであって、それぞれの文化に独自の価値を認める立場から容認できない。
特定の文化は、まずその文化の内部の研究者によって研究されなければならない。
だからこそ、柳田は「一国民俗学」に固執した。p150-151

柳田民俗学というフレームを通してあらわれた、民間主導の国民文化形成運動でもあった。p159

第七章 「常民」そして「郷土」
蝸牛考
この研究が単に共時的な方言の広がりだけでなく、方言の歴史的形成という問題から言語の通時的変化の分析へも回路を開いている。 
方言周圏論を強く主張した理由
・方言の地位の向上。方言の方が由緒正しい日本語だったという価値の転倒
・子どもへの着目。女性や子どもによる文化の創造

むすびに
柳田は挫折した官僚だった。政治の世界に生き続けることができず、大臣にも、貴族院議員にもなれなかった。その後、転身した新聞社にも柳田の居場所はなく、経営幹部として残ることはなかった。それは柳田にとっては人生における「敗北」だったかもしれない。
しかし、そのような敗北が民俗学という学問を生んだのである。柳田の仕事が日本社会に与えた影響の大きさを考えるとき、この敗北は同時に鮮やかな勝利だったと言ってよいのではないだろうか。p196