柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学 Ⅲ 新たなる日本へ

Ⅲ 新たなる日本へ
第1章 啓蒙する帰朝ジャーナリスト
アメリカの排日移民法
柳田は排日運動が起こる事情に一定の理解
国際舞台で英仏語が振るう政治的権勢に対して義憤を覚える人物は、英語を国語とする国に移住しながら英語を習得しようとしない日本人に対して義憤する人物でもあった。p235

柳田がスイスの政体を調べ、それに好感を抱き、この選挙先進国に学ぼうとジュネーヴで一度ならず選挙見学をして、スイスの新聞と直後選挙の運営との間の密接な関係に気付いていて、選挙をする人々の態度に注意していた。p242

第2章 島のエスペラント
1923年11月の帰国後、柳田のエスペラントの啓蒙活動は本格化する。
しかし1928年以降、エスペラントについて語るテクストや講演記録はほとんど確認できない。
柳田が表立ったエスペラント宣伝活動をしなくなった背景には、精力を日本民俗学確立に傾注しだしたことに重ねて日本社会の右傾化・反動化があったと推量する。

第3章 成城郊外学
著者はシャンペルを散歩しながら、ふと思った。ここは成城に似ている。

〈郊外住宅から田園を散歩し野鳥観察をする〉という柳田の生活スタイルが、正確には東京西郊に先立ちジュネーヴ南郊ではじまっていた。

そもそもこの時期、成城に住むこと自体が一種の政治的・社会的な実践だった。

第4章 島と山
帰国後の数年間に特徴的なのは、
柳田が沖縄出身者を重んじつつ沖縄研究の組織化に奔走していること、
現代の沖縄が本土との関係において抱えている問題を強く意識していること、
沖縄研究を世界史的文脈へ開こうと努めていることp293-294

ヤマト民族の北上による先住民族の生活形態の変遷を明瞭に語った「山人考」が「山の人生」とともに単行本『山の人生』に収録されている点にも注目すべきである。
未発表だった1917年の講演筆記をわざわざ単行本に含めたことは、柳田がかつての主張をいまだ保ち、「山人考」によって「山の人生」における山人先住民族説の説明不足を補おうとした。p302-303

第5章 一国語民俗学
フランス言語地理学と『蝸牛考』の相違
・柳田が音韻的偏差よりも語彙の偏差に注目している
・柳田は新たな語彙を創作する者たちの社会的背景や感情を非常に重んじた。蝸牛の異名の誕生と伝播の背景に、村童たちによる集団的な口承文芸を透視している
・方法論よりも研究成果の水準に、またそこに柳田がこめた価値や感情に見出だされる。つまり「方言周圏説」

柳田における西洋の学問の受容を語る場合、洋書の読解だけを問題にするのではなく、もっとヨーロッパの組織的・社交的な学術活動との関連を調査し、総合的に分析する必要があると思う。p331

柳田のヴィジョンによると、日本とヨーロッパ大陸の国とでは、多様性と同一性のあり方に対照的な違いがある。
前者では、民族的単一性を基盤に、その地理的ヴァリエーションが高密度に多様であるのに対し、
後者では、民俗的異質性が複数のゾーンとなって顕れるが、ゾーン内のヴァリエーションの密度は低い。
同質的多様性VS異質的均一性
前者の同質性は、国土が海に閉ざされていることに起因し、後者の異質性は、国土が多方向に開かれることに起因する。p333

第6章 予定調和に抗して
ヨーロッパ体験の影響の二つの波
・国際協調主義・普通選挙エスペラント等を日本に根付かせる。植民地主義への批判。 南島を含めた日本列島の多様性を南洋群島やアジアとの比較や渡来民と先住異民族との関係を通して思考。 震災復興後の都市批評
・方言研究、口承文芸研究、民俗学の概論

エピローグ 柳田国男と日記
柳田は若い時分から死の数日前まで日記をまめにつけていた。しかし所在の明らかな日記は、残念ながら一冊もない。
また書簡の有無も不透明

読了自記も柳田にとってのテクスト

瑞西日記」は1940年代後半に「序」まで書いて出版しようとした。しかし出版しなかった。最晩年にこれを、おそらく没後出版になるという覚悟で、『定本 柳田國男集』に収録することに決めた。ただし、1947年に書いた「序」は変更しないまま。