剣と清貧のヨーロッパ (後半部・托鉢修道会)

中世ヨーロッパにおける13世紀の商取引の活発化
それは輸送技術の発展を前提としている。
船の方向転換が横舵から船尾に垂直に取り付けた舵←十字軍遠征によりイスラム教徒の考案した逆風の中でも航行できる技術を取得p155

中世が過ぎてから作られたある二行詩
ベルナールは谷間に行き、ベネディクトは山へ行く
フランチェスコは町を好み、ドミニクスは都市を好む

ベルナールはシトー派
ベネディクトは聖ベネディクトが開いたモンテカッシーノ修道院
フランチェスコは山上の都市集落であるアッシジp166-167

聖フランチェスコの名前の由来
シャンパーニュ大市の所在する「フランス」に因んで、父が与えた名前、というのが有力な仮説
フランチェスコ自身が言い出し、使い始めた、という説もある。
聖フランチェスコ聖霊の熱情に満たされると、大きな声で、フランス語で話した、という証言もあるp171
(昔読んだ塩野先生の本では、母親がフランス出身だから、という理由が書かれていました)

フランチェスコの教養のうちに、4つの異なる位相を想定している
騎士イデオロギー
宮廷文化
福音的革命
修道制の伝統
フランチェスコの感性は、中世の詩文学によって濃厚に刻印されたものと見ることができるp190

聖フランチェスコ研究における「フランチェスコ問題」
フランチェスコ死後の「小さき兄弟団」に、大学人が数多く入り込み、主導権争いが起こり、創設者聖人の伝記にもその影響が波及し、またフランチェスコの著作それ自体の真贋問題が提起されるなどの事態を総称する表現p199

フランチェスコ修道会とドミニコ修道会は、同じ托鉢修道会に分類されていながら、歴史家の寄せる共感の思いにおいて、また後代の評価の点で歴然とした落差がある。p201
異端審問の創設者というドミニコ修道会の悪いイメージ

ラングドック地方で1215年に誕生したドミニコ修道会
厳しい情勢の中、ドミニクスは「天才的な閃き」で、まだそれほど多くを数えていない兄弟たちを、キリスト教世界の大都市であったパリ、オルレアン、ボローニャマドリードセゴビアなどに分散させた。
ドミニコ修道会がラングドックという地方的枠組みを越えて、「世界」に乗り出す重要な契機を生み出した。p215-216

修道誓願を遂行することなく、自発的に貞潔と清貧の生活に入った女性を表現する「ベギン」という言葉は何に由来するのであろうか
これまでの研究では六つの仮説がある
①七世紀末の聖女ベッガに由来
②吃音のランベールという十二世紀の司祭に由来
③低地ドイツ語で「物乞いをする」という意味のbagから
④ベギン女性が身にまとうベージュ色から
⑤アルビジョワ派のラテン語の中間の音節から
オランダ語の「おしゃべりする」を意味するbeggeに由来p229-231
(どうでもいい話ですが、自分が初めてベギンという言葉を聞いたときは、ペギー葉山さんのお顔を思い出してしまいました・笑)

中世後期、聖人として列聖された者は男性が85.7%、女性が14.3%
修道士、修道女の比率もさほど変わらず11人の修道士に対し修道女はわずかアッシジのキアーラのみ
ところがベギン女性もふくめて、俗人身分からの列聖となると、その比率は女性が55.5%、男性は45.5%と逆転する。p240-241