正統と異端 第3章~第7章、解説

 
カトリック教会において、涜聖聖職者の秘蹟は有効か否か、再洗礼・再叙品などの秘蹟の繰り返しは可能か否かについて、激しい論争が行われる。これを「秘蹟論争」と名づける。
 
グレゴリウス改革は第一義的には、聖職の売買や聖職者の妻帯を一掃するという、教会規律の刷新を目的とするものであるが、
与えられた成立期の封建社会という条件のもとでこの目的に到達しようとすれば、世俗の封建権力との闘争なしにすますことはできない。
 
中世カトリック教会のリヴァイヴァルであったはずのグレゴリウス改革が、その秘蹟論においていわゆる異端的立場をとったために、イノセント3世にいたってようやく一応の解決を見た重い負い目をローマ教会に課する結果となった。
 
民衆十字軍のあきれ返るほどの無謀さとファナティックな精神は、むしろ封鎖的な社会に注入される一方的なアジテーションが、どんなすさまじい効果を引き起こすかということの、ひとつの典型的事例である。
 
クリュニー修道院は11、2世紀の交、外面的には繁栄していたが、修道院の俗権からの自由と、聖ベネディクト戒律の厳格な実践とでヨーロッパ精神界を指導したクリュニーの時代は、グレゴリウス7世の時代にはすでにすぎていた。
繁栄が奢侈を生み、奢侈が規律の弛緩を生むことは見えやすい道理である。
さらには修道院に閉じ込められ「使徒的生活」はどの修道会の場合にあっても、半世紀とその理想を保持しえたものはなかった。シトー派もたちまちクリュニー派のあとをおった。
 
1143年、ローマ市民の一団が法王に反抗し、古ローマ共和国の復興を名とする革命をおこした。
当時はローマ法王権が、近代のような純粋な宗教的権威ではなかった。
このときにようやく、ローマも他の自治都市と並ぶ都市に発達したことを証明するものであった。
このような分裂と対立の多いイタリアの都市は、教義上の争い、異端の発生には、きわめて好都合な温床をなすものであった。
 
教会の異端には、本来の異端とともに、ワルド派や謙遜者のように、宗教的熱誠のあまり教会職制にふれたところの、本来は教会の異端に対する防衛につこうとした人々も含まれていた。
 
イノセント3世はワルド派などの異端の確認に慎重であった。これは彼が従来の法王庁政策や地方司教の異端対策に深い不満と疑惑をもっていた証拠にほかならない。
 
イノセント3世の革新的宗教運動対策が、フミリアーティを除いてことごとく失敗に帰したと見えたとき、最後に唯ひとつのものが残った。
フランシスの小兄弟団である。
フランシスが語ったように、聖職者たちの世俗的利害への執着ゆえ、「主の家が傾いていた」のではなかったか。
(この最後のほうで、第一章に出てきたフランシスがジャーンという感じで再登場する。やはり2013年、同名の法王が現れた時代には感慨深いものがある)
 
本書が記された1960年代、いわゆる中世暗黒説が蔓延していた。
本書において、異端と正統のきわどいせめぎあいのなかから、噴出したエネルギーを、構造本体の改編と沸騰にむすびつけて理解すること、が強調され、伝統的中世観を覆していったのである。