剣と清貧のヨーロッパ(前半部・騎士修道会)

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剣と清貧のヨーロッパ
佐藤彰一 著
2017年12月25日 発行
中公新書 2467

旧来の修道院に加えて、12世紀に期せずして出現した騎士修道会托鉢修道会
騎士修道会と、国王や君候に奉仕する世俗の「騎士団」とは異なる。

騎士修道会
テンプル騎士修道会、ホスピタル騎士修道会
ポーランド、シュレジエン、バルト海地方などに目を向けたドイツ騎士修道会
イベリア半島南部のイスラームと戦うことを役割としたスペインの騎士修道会

一世紀以上にわたりフランス王家の財政を運営してきたテンプル騎士修道会
国家の中の国家のように所領、財源を有する組織だった。
国家理性に覚醒した国王フィリップ4世にとって、どうしても自らの足下に屈させなければならない存在だった。p76

ドイツ騎士修道会国家というひとつの国の商業に対する、修道会の圧倒的な支配はヨーロッパでは例外に属する。
修道会は自らの組織が生産した物資を、あるいは自国の領土で作り出したものを売却した。これに対して、ハンザ同盟はもっぱら輸入および輸出という媒介役を果たしただけであった。p103

中世後期ヨーロッパ貴族の騎士文化の中で異彩を放つ「プロイセン遍歴」と呼ばれる現象
14世紀、ドイツ騎士修道会はヨーロッパ全土の貴族に、「北のサラセン人」に対する十字軍を呼びかけた。
その結果、イングランドやフランスをはじめとする神聖ローマ帝国外からの参加者が到来し、ヨーロッパにおける騎士の社交場の観を呈した。彼らは正式の加入儀式を経た騎士修道士ではなく、いわば高位の援軍、客人傭兵の資格で戦いに加わったのである。p107

時代を経るにつれて騎士修道会は本来の十字軍の思想とは無縁の、国王権力の政治的野心に奉仕する軍事力の単なる一要素とみなされるようになる。
ポルトガルでも王権との結びつきを強め、支援を行い、15世紀になると騎士修道会はアフリカ沿岸の探検とさらに遠方の航海に乗り出す。
ヴァスコ・ダ・ガマはサンチャゴ騎士修道会の一員であった。

騎士修道会のもたらしたもの
「聖戦」思想の胚胎と形成
テンプルやホスピタル騎士修道会による、十字軍を通したヨーロッパと近東世界との往来の定着と金融取引のシステム創設
植民地支配の拡大
農業経営の一層の組織化