パリ解放 1944-49 第4部 新たな秩序

第30章 パリのアメリカ人
40年代末にパリでもっとも目についたアメリカ人は、外交官、軍人、そしてマーシャルプランの実働部隊だった。

第31章 観光客の襲来
若きアメリカ人が自由を渇望している一方、より厳格な同国人は衝撃と非難とを表明した。1948年夏、フランスの政治的、性的、衛生的、美食的な無規律は、多くの道徳的非難に主題を提供した。

第32章 パリは永遠にパリ
マーシャルプランは人々があえて期待したよりも早く経済復興を勢いづけ、フランスは1948年その効果を目にし始めていた。
1949年初めから、フランスの日常生活はより暮らしやすくなり始めた。

第33章 反復性発熱
1949年の経済復興で最初に損害を受けたのが共産党とすれば、ドゴール主義はまもなく政治的な無風状態の最初の犠牲者となった。
その一方、経済計画は最大の利益を得た。
ジャン・モネは復興のかなたに統一ヨーロッパを見た。イギリスの心がヨーロッパにないことを理解すると、注意をドイツに向けて、シューマンプランと呼ばれる欧州石炭鉄鋼共同体を計画した。

ピカソによるスターリンの肖像。共産党内に大いなる憤怒の渦を巻き起こした。

訳者あとがき
1974年にアンジェ市に滞在した訳者。
下宿の主は対独協力強制労働からの生還者だった。
1959年に通貨のデノミを行ったが、74年になっても、「フランス国」時代のフラン貨が、サンチーム貨として通用していた。すり減った貨幣に刻まれた「労働・家族・祖国」の文字を見る度、占領とペタン政権は身近な記憶なのだと感じた訳者。