ナポレオン時代 中公新書

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ナポレオン時代
英雄は何を残したか
アリステア・ホーン 著
大久保庸子 訳
2017年12月25日初版
中公新書 2466

1795年から1820年までの二十五年間を「ナポレオン時代」として、叙述しています。
全体的にナポレオンを皮肉っぽく描いていますが、それは独裁者に対する嫌悪感からなのか、ナポレオンと戦ったイギリスの人だからなのか、単に著者の性格が悪いだけなのかはよくわかりません(笑)。

コルシカで生まれ育ったこともあり、フランスという国家を身につけるとなると、根本的にカトリック教会を無視できないことをナポレオンは片時も忘れなかった。

恐怖政治そしてそれに続く無能で腐敗した総裁政府に幕が降り、道徳的にも軍事的、政治的にもぽっかり穴があいた。そこにナポレオンがすんなり滑り込んだのだった。

ナポレオンの何よりの手柄は、どこから見ても、1798年に掲げたパリ再建という野望を遂げたことにある。p41

1804年には民法典(ナポレオン法典)が議会を通過
二千以上の条項をわずか四年で完成させた。大部分が今もなおその効力を維持している。p54

1805年から07年にかけて三度の遠征を行って1807年に戻るまで、ナポレオンはほとんど一年間パリを離れていた。それでもパリに残っている官吏に対して、手紙、指令書、命令原案書を送っていた。軍事本部がヨーロッパ大陸のどこに置かれようとも、そこから放射状に伝達網と郵便網を走らせた。

ナポレオンがパリのために行った恒久的業績の一つであり、パリの街が今なお間違いなくその恩恵に浴している事業と言えば、ウルク川からはるばる百キロメートル近い運河を通して真水を引き込んだことだ。p117

ナポレオンが求めた簡素さ、そして頑丈さは帝政様式に顕著に見られる特徴である。とりわけ基本的にローマ帝国を拠り所としていたために、この様式は、歴史的に、全体主義的で成金じみていると非難される傾向にあった。p135

フランスには革命期、執政政治時代、帝政時代を通して卓越した作家がほとんど現れなかった。
帝政的権力が頂点にあった頃のソビエト連邦の場合にも似て、独裁体制に対する償いとしての「パンとサーカス」に決してなびかない階層が知識人だったからだ。
美術や文学は独裁支配の風潮の中では常に衰退していくものだからだ。p186.187

一方、帝政下では科学は細分化され、それまでになかったほどの特典と優先権がそこに与えられ、ナポレオン治世下では長足の進歩を遂げることとなった。p190

「解題」より
ナポレオンは天才的軍人であるとともに、優れた政治家・統治者でもあった。
ナポレオンの歴史的功績を一言で述べるなら、「フランス革命の混乱を終息させ、かつ、革命の成果を取り入れつつ近代社会の基盤を築いた」ということになろう。p277

ナポレオン没落の契機はヨーロッパ近代の創始者となったこと自体に求められる。
ナポレオンに征服されたことによって、ヨーロッパ諸国の封建的制度が崩れ、社会が近代化していった。そしてヨーロッパ諸国の軍隊もナポレオン軍の影響により国民的軍隊へと性格を変えていった。
ヨーロッパに「近代」をナポレオンがもたらしたことにより、ヨーロッパ諸国は以前よりずっと手ごわいものになってしまった。

ナポレオン没落の個人的事情
成り上がり者のコンプレックス
「幸運の女神」であったジョゼフィーヌと別れてまでもハプスブルク家の皇女と結婚したのも、世継ぎの確保もさることながら、自分の弱点を克服したいという思いがあったから。
しかし、この結婚は生まれながらの君主達による、ナポレオンに対して仕掛けられた罠だった。p283

ナポレオンは現代フランスの基礎を築いた人物である。
二百年前にナポレオンが制定した制度で今なお受け継がれているものがたくさんある。
行政と司法の組織的枠組み、知事制度(フランスでは知事は選挙で選ばれるのではなく、中央政府の任命)、フランス銀行、レジオン・ドヌール勲章、学校制度、バカロレアなどp288
(厳密には、フランスの知事制度は1982年の地方分権法の制定によって、執行権がナポレオンが創設したプレフェ(官選県知事)から間接公選によるプレジダン(公選県知事)に移管されている。そして中央政府に任命されるプレフェは県において国の機関を統制する「地方長官」的な役割となった)