パリ解放 1944-49 第3部 冷戦突入

第19章 影絵芝居 計略と逆計
ドゴール辞任でいちばん迷惑をこうむった機関は将校団だった。
1946年春に深い不安感の漂う時期であり、右翼活動の盛り上がりを見た時期でもあった。

第20章 政治と文学
1946年5月5日の国民投票
第四共和制の憲法草案は、ほとんどの権力を国民議会に残し、大統領の権力は純粋に儀礼上となるものだった。
僅差での「ノン」の勝利
そしてドゴールの威信は高まった。

第21章 外交の戦場
1946年、外相会議や和平会議でパリは現代のウイーン会議を主催することとなる。
冷戦の兆しが出始める

第22章 ファッションの世界
占領期間中、共産主義者でさえも、パリのファッションをレジスタンスの武器と見なした。

第23章 二都物語
パリが高級住宅街と貧民街にはっきりと分かれているのは、第二帝政下におけるオスマン男爵の抜本的な区画整理によるところが大きい。
1946年の冬は二十世紀最悪と呼ばれるほどだった。寒さの記憶が飢えの記憶よりも遥かに長く残った。暖房用燃料が破滅的に不足したからである。

第24章 共産主義者に反撃する
フランスではトルーマンの演説以前に、共産党員の潜入に対する「新たなレジスタンス」が目につき始めていた。行政内部での共産党の影響力を弱めた。

第25章 自らを実現していく予言
1947年6月7日、アメリカ合衆国国務長官マーシャル将軍は名誉博士号を受けるにあたり、ハーヴァード大学でスピーチをした。
これは戦後時代の最も重要な外交政策を発表するものだった。
その計画は赤軍の占領下にある国も含めたすべてのヨーロッパ諸国に広げることを明確にした点で重要だった。

第26章 共和国、絶対絶命
1947年秋の社会不安。衝突事件、暴動、ストライキ

第27章 サン=ジェルマン=デ=プレ沸騰
戦後のサン=ジェルマン=デ=プレほど、バーやビストロ、カフェで知識人が育った時期はない。

第28章 奇妙な三角形
1948年は冷戦の間で最も危険な年であり、またドラマチックな年だった。
その年はマルクス=レーニン主義者の歴史的必然性の主張が難攻不落と思えてくるような形で展開の速度を速めていった。
プラハの政変とベルリンの脅しの後、フランス国民の大多数は、いまや自分たちの居場所は西側陣営にあると理解していた。

第29章 知識人の背任
共産党から離れていく知識人