物語 ベルギーの物語 ヨーロッパの十字路

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物語 ベルギーの物語 ヨーロッパの十字路
2014年8月25日 発行
 
カエサルガリア戦記において、このあたりは、ベルガエ人の住んでいるところ、とされた。しかしその後「ベルギー」の名前は西欧史において、独立するまでほとんど目にすることはない。ネーデルランドやフランデレン地方と呼ばれていた。
 
1830年のベルギー独立時のヨーロッパ情勢
1789年のフランス革命からの流れにより、人々は専制君主から共和政の到来を夢見ていた。しかし君主から見れば、その革命の波をベルギーで食い止めなければならなかった。
かつて「ローマとゲルマンの狭間」が、このときは「共和政と君主政の狭間」に立たされていた。
独立時国王に即位したレオポルド1世は、内閣を組閣するに際して、国王が「組閣担当者」なる非公式の役職を任命するという方法をとった。この慣例は、現在でも続いている。
 
ベルギーの社会構成
カトリック社会主義自由主義それぞれの「柱」によって縦割りにされたような「柱状化社会」
現在では希薄にはなりつつあるが、それでもワロンは社会主義の柱、フランデレンではカトリック、そしてブリュッセルでは自由主義が強い。
 
ベルギーの植民地だったコンゴ
1885年8月1日、レオポルド2世は、コンゴ自由国の元首となる。個人所有の国が誕生した。
ここから生み出される資源、特にゴムと象牙によって、ベルギー経済は大いに潤った。しかしながら植民地企業によるコンゴ支配は残虐なものであった。
 
国王、王室がワロンを立てればフランデレンが怒り、フランデレンを立てればワロンが怒る。それは連邦制導入後20年を経ても、全く変わらない。
 
2015年は日本とベルギーの国交150周年となる。
また天皇とベルギー王室との交流もある。1921年(大正10年)当時の日本の裕仁皇太子は英・仏に次いでベルギーを公式訪問した。晩餐会では日本の「民族・言語の単一なる6500有余万の国民の歴史」に対する敬意を表した。言語問題に苦しんできたベルギーならではの歓迎の言葉である。
 
生まれついての多言語国家ベルギー。それでも「妥協」や「合意」によって、一つの国であり続けた。そしてその「合意」の中心に立つのが国王であった。