マルティン・ルター(岩波新書)

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ことばに生きた改革者
徳善義和 著
2012年6月20日 第1刷発行
 
ザクセン地方で実業家として成功した父の期待を伴い、エルフルトの大学で法学を学ぶ。
しかし雷鳴を受けたとき、突如修道士になる決意をする。
ルターのいた修道院は堕落しておらず、当時としては最高の部類に入るものだったとされる。ただその中に潜む自己満足と傲慢に気づいたのが、宗教改革に取り組むきっかけとなった。
 
中世の異端裁判として、ジャンヌダルクヤン・フスのそれが知られる。
この場合、教会が行うのは異端の判決までで、そこから先は世俗権力に引き渡される。
ジャンヌダルクらの時代と違い、ルターが処刑をまぬがれたのは、教会が社会において絶対的な権力を持たなくなった時代背景もある。
 
1521年1月3日、ルターは破門になる。それは21世紀の現代に至るも解かれていない。
 
その後ルターは突然誘拐される。
しかしその誘拐劇はカモフラージュで、選帝候の宮廷顧問官が仕組んだものだった。
ザクセンの宮廷顧問官はルターの強力な支持者だった。彼らのような当時ドイツで勃興した新たな社会勢力が一貫して宗教改革の理解者出会い支持者だった。
そしてワルトブルク城に匿われ、画像のような部屋で著作活動や手紙を書くことに専念する。
 
信仰という一点において一切妥協を許さないルターの強い姿勢は、己の信念に基づく純粋なものであった。
しかしそれゆえに人文学者エラスムスとのすれ違い、ドイツ農民戦争に対する非妥協的な面、またユダヤ人批判などがルターの限界であるのかもしれない。
 
(画像はwikiからです)