エラスムスについて(ラテン語原典訳 痴愚神礼讃より)

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ラテン語原典訳
2014年1月25日 初版発行
 
エラスムスという、16世紀の精神社会に君臨した知的巨人の代表作「痴愚神礼讃
しかしながら日本では「知られざる人物」である。その理由としては彼がラテン語作家だからということになる。
当時のヨーロッパの国際語であり、知識人の共通言語であったラテン語で全作品を書いた。しかし近代においてラテン語は衰退する。
 
エラスムスは若くしてオランダを出て以来、フランス、イギリス、オランダ、イタリア、ベルギー、スイス、ドイツと居住の地を変え、ついに定住の地を持つことなく終わった。その意味で、真の、同時に最初の「ヨーロッパ人」であった。
 
痴愚神礼讃エラスムスが繰り広げた、痛烈な教皇庁ならびに腐敗堕落したカトリック体制批判が、著者自身が予想もしなかった起爆剤となって、それに深く共感したルターによる宗教改革を呼び起こした。
エラスムス自体はあくまでカトリック体制内部での自発的な改革を望んでいたため、ルターのカトリック社会を打ち壊すその暴力的行動には賛同できなかった。エラスムスはかつての純潔無垢な福音書の精神に立ち返り、硬直化し桎梏と化したカトリック体制からキリスト教を救い出し、その再建を図ることであった。
(こういう点は、後の時代のゲーテの考え方に似ているように思う)
よって新教徒側からは風見鶏、日和見主義者と揶揄された。
さらにカトリック側からはルター派として嫌われ、異端のにおいがする危険人物として槍玉に挙げられた。
 
徹底した反戦・平和主義者でもあったエラスムスは、イタリアの覇権をめぐって列強が戦争に明け暮れていることに著作を通じて抗議したが、現実社会の前に無力だった。
 
1536年バーゼルにて、トマス・モアの後を追うようにエラスムスは死す。享年67歳であった。
その後1542年パリ大学神学部がこの痴愚神礼讃を禁書とし、1554年には教皇ユリウス3世により第一級の異端者とされ、その全著作が禁書とされる。それにもかかわらず、ヨーロッパでは広く読み継がれ、多大な影響を与えてきた。