物語 ドイツの歴史 ドイツ的とは何か 阿部謹也 著


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物語 ドイツの歴史 ドイツ的とは何か
中公新書 1420
2006年7月20日 13版

936年にアーヘンで国王として戴冠したオットー
その基本的政策としての
帝国教会制度
自立性の強い諸部族を従えるためにオットーは教会という部族とは関係の無い勢力と結び、身近な聖職者を大司教、司教などに任じた。国家行政の主要な部分を聖職者に委ねることで役職の世襲化を防ぎ、文書に通じた聖職者によって行政の能率が上がり、全国的な規模で行政が可能になるなどの利点があった。

国王ハインリッヒ4世が教皇グレゴリウス7世に破門の撤回を求めたいわゆる「カノッサの屈辱
ハインリッヒがそこまでしなければならなかったのはドイツ国内に改革修道院に味方する有力な候たちがいたためである。

12・13世紀におけるエルベ川を越えて東方に騎士や農民の植民が始まった。
そして東ドイツにおいては農場領主制(グーツヘルシャフト)として人格的に不自由な農奴の労働による領主制で初期から市場向け生産を行っていた。後のユンカー(一般的に近代以降の東ドイツの農場領主をさす)経営のさきがけとなった。
この地がのちにドイツ民主共和国の国土となった。

12世紀以来個人が徐々に成立し始め、15世紀には一般民衆の間にも信仰の個人化が進んでいた。
ルターはまさに12世紀以来の西欧の個人人格形成の流れの中に立っていたのである。
これまでのルター研究ではカトリック教会の教義に対する反抗という形で説明されてきたが、反抗の原点は12世紀以来の個人の成立の延長線上にあった。

トーマス・マンはルターを「ドイツ気質の巨大な権化」と呼び、ルターが体現している生粋のドイツ的なもの、分離主義的反ローマ的なもの、反ヨーロッパ的なものに嫌悪感と不安を感じると述べている。
ルター、ビスマルクヒトラーがドイツ史の基本路線としてみる一種のドイツ史批判である。

ドイツにおいては、中世以来各種の特権を持っていた聖職者、貴族、都市市民は「公共」という目的のために上から平均化され、警察法令と官僚制によって、均質的な臣民団体へと変質すべく強要されていった。
郷紳層による支配が行われていたイギリス
絶対王政のフランス
市民の共和国を作ったオランダ
貴族の共和国であったポーランド
とも違った体質を持っていた。

18世紀がゲーテの時代といわれる理由は
彼の自然科学や文学における活動によるものであることは明らかであるが
当時のドイツ有様そのものの中にあったといわざるを得ない。
もしゲーテがフランスに生きていたら単なる宮廷詩人で
イギリス人であったならトーリー党の議員であった
ドイツはフランスやイギリスと違い政治的には一国の体をなしていなかった。
人々は各地で協会に集まり、様々な文化的な行動の中で自己のアイデンティティを求めていたが、それは政治に期待が持てない人々の自由を求める運動であった。
文学と学問こそ、そのようなドイツ人の期待を担う唯一の分野だった。

ビスマルクの時代、西欧にはフランスのナポレオン3世などの強力な人材が求められていた。
それらの人物の共通点は、過去の独裁的支配のあり方を、未来の大衆民主主義と結びつけた点である。

1997年から1998年にかけて、クルド難民がイタリア南部に集まってきた。彼らはイタリアに入国後は、親類などが滞在するドイツやフランスに行くと見られている。
ヨーロッパ連合はこのような難民問題を抱えており、この問題はトルコの加盟問題とも関わり、将来重要な課題となることが明らかである。
(確かに著者の予言どおり、現在重要な課題になっています。そしてちょうど難民問題解決のために、トルコを利用するような話が出ていますね)