第四の大陸 人類と世界地図の二千年史 第三部 新旧世界の融合

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第3部 新旧世界の融合
第17章 ギムナジウム(学舎)
16世紀初めアルザスはドイツ領で、ストラスブールはシュトラースブルクだった。
15世紀の最後の10年は書籍取引で活気を帯び、ドイツ最初の人文主義者が現れた。
ドイツの人文主義者は、分裂し虐げられてきたヨーロッパのゲルマン民族を再統合し、古代ギリシャとローマを現代に継承する者を作り出したかった。
マティアス・リングマン。1482年生まれ。
ガリア戦記のドイツ語への翻訳の過程で、プトレマイオスのゲオグラフィアを参照する。
そしてムンドゥス・ノーヴスでアメリゴ・ヴェスプッチの南方の発見に感銘する。それはウェルギリウスの予言どおりだった。

シュトララースブルクの百キロメートルほど南西、ヴオージュ山地の静かな教会町、サン・ディエでヴオージュ学舎という社名の出版社を作りゲオグラフィアの改訂を進める。学舎の設立者はヴァルター・ルート、サン・ディエの教会の司祭。メンバーとしてリングマンとドイツ人人文学者のマルティン・ヴァルトゼーミュラーを見出だす。

第18章 果てのない世界
ヴェスプッチからルネ公への手紙。そのものの真偽、内容の真偽の疑わしさ。
プトレマイオスに関する知識、ヴェスプッチの手紙とカヴェリオ海図、そして新しい印刷技術、それらを元に巨大な新しい世界地図、地球儀、そして使用解説書である「天地学入門」を作成する。
リングマンが執筆、ヴァルトゼーミュラーが地図という役割。
アメリカの名付けもリングマ
Amerigoにギリシャ語で大地を意味するgenを付けたもの。
また「新しく生まれた」とも読める。
更には場所のない土地、という意味や、ゲルマン的な名前をつけるという言葉遊びもあったのではないか?

地図の中央はプトレマイオス、東はマルテルス、西はカヴェリオを参照する。

地図は12枚の版木にして、千部刷る。そしてサン・ディエでなく、シュトラースブルクで印刷。

地図の二つの端、左の新世界、右の極東、を中央の旧世界から広がってみせるようなデザイン、あたかも鳥が翼を広げ飛び立つかのようであり、マクシミリアン1世が皇帝旗に使った、偉大な双頭の鷲が翼を広げたようなもの。

この地図では太平洋の存在を確認する数年前にも関わらず、、新世界を海に囲まれたものとした。

第19章 その後の世界
サン・ディエで印刷されたばかりの未製本の「天地学入門」はまとめて樽に詰められ、ロバの荷車で山を下り、シュトラースブルクに運ばれた。そして大きな地図と組み合わせられてシュトラースブルク、ドイツ全土、そして更に遠くへ広まっていった。

トマス・モアもユートピアの中で引用している。

ラス・カサスに影響され、スペイン人は2世紀に渡ってアメリカという名前の使用を拒む。しかし最初から勝ち目はなかった。
1538年、メルカトルが世界地図をデザインする時、新世界全体をアメリカと呼ぶべきとした。

リングマンが死んだ後、ヴァルトゼーミュラーはなぜかアメリカという名前の使用を止めている。

天地学入門に1512年にはポーランドクラクフ大学まで達しており、コペルニクスにも影響を与えた。

エピローグ 世界の姿
1507年のヴァルトゼーミュラー世界図はいろいろな世界を示してくれる。
プラトンの地中海の海辺の世界
プトレマイオスのローマ最大時の世界
アイルランドの僧が漕ぎ出した北大西洋
モンゴル人の大群
それに応じたヨハンネス修道士とウィリアム修道士の見た東方
マルコ・ポーロ
サー・ジョン・マンデルの地上の楽園の向こう
ヴィヴァルディ兄弟の大西洋
地中海と大西洋沿岸の海図を作るヨーロッパの船乗り
古代の地理学を復活させたペトラルカ、ボッカッチョ
プトレマイオスのゲオグラフィアをフィレンツェに持ってきたクリュソロラス
コンスタンツとフィレンツェでの公会議での交流
南に航海するポルトガル
希望峰に達したディアス
大西洋を四回横断したコロンブス
ヴェスプッチによる新世界の海図の孤立した線
それらの海図の一つが、ロレーヌのサン・ディエという小さな山間の町にたどり着く。
そしてヴァルトゼーミュラーリングマンの頭の中で、それらの海岸がとうとう新しい世界の第四の部分を形づくる。

この地図は1492年に出現した新世界の出生証明書であり、それまでそこに存在していたものの死亡通知でもあった。

補遺 スティーヴンスとブラウンの地図

(画像は1507年のヴァルトゼーミュラー世界図です)