第四の大陸 人類と世界地図の二千年史 第2部 新世界

第2部 新世界
第6章 再発見
初期のイタリア人文主義の中心人物 フランチェスコ・ペトラルカ 1304年生まれ
生涯を通じて古典書籍を求め広く旅する。文学的考古学。
古代人が知っていた世界の全体像の把握に努める。

ペトラルカの弟子ジョヴァンニ・ボッカッチョ
地理学の参照辞書を作る。

第7章 賢人プトレマイオス
クラウディオス・プトレマイオス。紀元百年頃生まれ
ギリシャの数理地理学の伝統を踏まえ、世界を地図化する方法を読者に示すため、ゲオグラフィアを書く。
世界地図作成のため、まず第1に地球の大きさを決める。
そして次に星を利用して知られている世界の大きさを決める。
そして経線と緯線の網をかぶせた後、ヨーロッパ、アジア、アフリカの一部の範囲を決める。
6世紀以降、ゲオグラフィアはヨーロッパで顧みられなくなる。
しかし13世紀の終わりにマクシモス・プラヌーデスというビザンツ人の僧が再発見する。そして地図を再構成する。
この後ゲオグラフィアがラテン語の世界で復活するのは更に一世紀後のことである。

第8章 フィレンツェ人の世界観
14世紀の初め、フィレンツェ人はヨーロッパ全体だけでなく、北アフリカ、コンスタンティノーブル、さらにははるか東の交易拠点でも十分な存在感を示した。
ペトラルカとボッカッチョの死後、コルッチョ・サルターティというフィレンツェの書記官長を中心とした人文主義運動。
彼らがコンスタンティノーブルからマヌエル・クリュソロラスをフィレンツェに招く。
その時にプトレマイオスのゲオグラフィアも携えてきた。
そしてそれを元にして地図も作られる。
また線遠近法ももたらした。

第9章 未踏の大地
1414年から1418年、南ドイツのコンスタンツ公会議人文主義者たちがゲオグラフィアを含む様々な貴重な文書を広め合う。

第10章 アフリカの大地へ
ポルトガルエンリケ王子により、ポルトガル人を西アフリカの海岸に沿ってヨーロッパ人が達したことのない地方にまで南下させる。
その原動力は黄金とプレスター・ジョン、そして奴隷貿易だった。

第11章 学者たち
1439年から1443年にフィレンツェ公会議をきっかけにギリシャ使節団たちと交わる。また、さらにヴェネチア商人のニコロ・コンティによりアジアの事情に触れる。
ビザンティンの学者プレトンによるプラトンと歴史家のストラボンの紹介。

第12章 嵐の岬
ポルトガルによるアフリカ大陸沿岸と内陸の探検。ディアスによる嵐の岬=希望峰の発見
マルテルスの地図やベハイムの地球儀

第13章 コロンボ
ポルトガルに受け入れられないコロンブスポルトガルコロンブスに比べてはるかに地理について詳しかった。チパングは信用出来ない。
スペインに賭けるコロンブス。いろんな本を読み初める。グーデンベルクの印刷技術の普及の恩恵を受けた最初の世代。

第14章 提督
航海に出るコロンブス
今の中米の島々に達し、インドだと思い込むコロンブス

第15章 キリストを運ぶ者
ガボットによる現在のニューファンドランド、もしくはラブラドールの一部の発見。
オリノコの三角洲を地上の楽園と思い込むコロンブス
ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカを回りインド洋を越え、カリカットに達する。
コロンブスは救世主的な主張と海峡の存在をほのめかして最後の航海出るが、今のホンジュラスからパナマまでの海岸線を発見しただけだった。

第16章 アメリ
1503年初め、「新世界」と名付けられた冊子。フィレンツェの商人アメリゴ・ヴェスプッチによる最新の探検航海のことが書いてある。
それには南極圏から17度のところにいたという記述。
この出版物は彼本人が書いていない可能性もある。
ヴェネチアのように海上に見事な技術で作られた家々、があった場所ということで「小さなヴェネチア」と呼ばれたことが現在ベネズエラの語源になっている。
1505年当時、西の大洋の向こう側に出現しつつあるものの全体像について、彼ほどの知識がある者はいなかった。