支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産

イメージ 1

支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産
その旅路と日本姓スペイン人たち
太田尚樹 著
山川出版社 発行
2013年8月10日 第1版第1刷発行    

支倉使節団の経緯を説明すると共に、その足跡を石巻市からローマまで実際に追った記録と並行しながら綴っています。
更にコリア・デル・リオというスペインのセビリア近くの町で、やたらハポン(日本)姓が多いことと支倉使節団との関連について調査しています。

第1章 支倉使節団とは何か
支倉使節団派遣の理由
イスパニアとの「国交樹立」説
1611年12月2日(慶長16年10月28日)、仙台藩を襲った慶長三陸地震。その「復興対策」説もあるのではないか?p17

支倉六衛門常長は海を渡った朝鮮出兵で活躍したことからも政宗の目にとまった。
しかし彼の父は不届きにより切腹させられていた。

第2章 使節団の足跡を訪ねて 月浦(石巻市)からローマまで

石巻から1613年10月28日(慶長18年9月15日)ひっそりと出帆する。
1614年1月25日、ノビスパニア(メキシコ)のアカプルコに到着。
1614年3月末、メヒコ到着。
同年6月10日、ベラクルスからイスパニアの軍艦に便乗して大西洋を渡る。
同年9月30日、イスパニアのサン・ルーカル・デ・バラメダに到着。
同年10月21日、セビリアに入る。
ドン・キホーテの作者セルバンテスがまだマドリッドで健在だった頃、日本の侍たちはドン・キホーテの舞台ラ・マンチャの大地を馬に跨がって越えていった。
同年12月20日、首都マドリッドに入る。
国王に謁見。
1615年8月22日、マドリッドを発つ。
同年10月3日、バルセロナに入る。
地中海で嵐に遭い、サン・トロペに避難する。複数のフランス人が、二泊の滞在について日記に書いていた。
同年10月11日、ジェノバに入港。
同年10月25日、ローマへ。パレードや法王との謁見。
外交交渉については、イスパニアに戻って再交渉するように、という返事しかもらえず。
1616年1月7日、ローマを発つてイスパニアに戻る。
同年4月17日、マドリッドに戻る。国王をはじめ周囲の空気も冷めていた。
一週間滞在後、一行はセビリア郊外のロレトとコリア・デル・リオで待機。

第3章 サムライの末裔伝説を追って
コリア・デル・リオの日本人の痕跡
・17世紀の洗礼台帳
・消去法から浮かぶ9名の未帰還者
・苗床から育てる稲作
ハポン(日本)姓の子孫に伝わった日本語
ハポン姓の子供に見られる蒙古斑

スペインに残った理由
・日本でのキリスト教の禁止
・情熱的なセビリア、更にはアンダルシアの女性
・大西洋、太平洋を渡る死の苦しみ
・支倉から残地諜者になるよう命令されたのか?