アヴィニョン法王宮殿の歴史

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アヴィニョンの法王宮殿の入り口であるシャンポー門から建物内部に入ります。
画像のようながらんとした中庭がありました。
すすけた感じが枯淡な味わいを見せています。
このあたりはいわゆる新宮殿と呼ばれるエリアになっています。

法王宮殿の歴史を振り返ってみると、
1309年、クレメンス5世が教皇庁アヴィニョンに遷移します。
次のヨハネス22世が教皇庁を拡張します。
そして次のベネディクトゥス12世(1334-1342在位)がその教皇庁を取り壊し、宮殿を建てます。それがいわゆる旧宮殿と呼ばれるものです。北側と東側にあたる部分です。
その次のクレメンス6世(1342-1352在位)が旧宮殿の南西側に、新宮殿を増築して1352年に完成しました。
そして次のインノケンティウス6世は上部にパラペット(胸壁)のある高いランパルト(城塁)を築き、宮殿を城砦として完成します。
パラペットにはメルロン(突壁)とクレネル(銃眼)があり、マシクリ(張り出し狭間)は、その穴から丸石、熱湯、鉛の溶かしたものを敵の頭上に落とすような仕組みになっています。
これらは中世城郭建築の形式であったともいえます。
その後ウルバヌス5世を経て、グレゴリウス11世により1377年に教皇庁をローマに戻したのち、間もなく教皇庁の分立時代となります。
そして1417年にローマに統一されます。
使われなくなったアヴィニョン教皇庁は損傷していきます。
1516年にレオ10世により修復され、1790年まではローマ教皇庁出先機関として用いられました。
しかしその後再び荒廃していきます。
フランス革命の悪影響などもあったのでしょうね。
そして現在は観光名所として「法王というツワモノどもの夢の跡」を残しているわけです。
(前回のアヴィニョンの記事で参考にした三冊を参照しています)