ローマ法王 竹下節子 著

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令和元年10月25日 初版発行
 
普段からこの著者の方のブログを愛読していますが、著書を読ませていただくのはこれが初めてです。
ローマ法王についての一般知識、歴史、そして最近の法王についてわかりやすく書かれています。
そのブログによると、今のフランシスコ法王にも生前退位の噂があるそうです。
 
序章 ローマ法王とはだれか
 
第1章 ローマ法王のホームグラウンド
 
第2章 ローマ法王とヨーロッパの歴史
 
2世紀以降、次第に権威を獲得するローマ教会
ローマはペトロとパウロの死の地であり、最初の殉教者の教会であった上に、いわゆる「西洋」に位置する唯一の使徒教会であったから。
カトリック(普遍)という呼称もそのころ生まれた。
 
ローマ司教の権威がローマ皇帝の権威によって傾いてきたころ、330年、コンスタンティヌス帝がビザンティンに帝国の首都を移す。
ローマ皇帝が自らローマを去ったことで、ローマ司教が首長としての権威を名実ともに手に入れた。
 
4世紀の終わりから5世紀にかけて、それまですべての司教に共通だった「父」(papa 教父)という呼称は、ローマ司教の独占状態となる。
 
496年のクリスマス、クローヴィスはランスで洗礼を受ける。
フランスは今でも、クローヴィスの洗礼を建国の日とみなしていて、1996年には建国1500年祭があった。
といっても、これはあくまでもカトリック国としてのアイデンティティであり、フランス革命以来共和主義を旗印にしたフランスには不適当だという論議もなされてきた。
 
グレゴリウス1世の死(604年)をもって、キリスト教の古代時代は終わったといえる。
その後7世紀初めに、地中海世界イスラム教が誕生した。
 
第3章 ローマ法王の盛衰
 
フィリップ4世は1309年に法王庁を南フランスのアヴィニョンに移してこれを完全に支配するようになる。
この期間は法王庁の亡命時代で「バビロン捕囚」にもたとえられるが、実際は、アヴィニョンを正式に買い取って法王領としたし、フランス人法王がフランス王の機嫌だけを取っていればいいので、イタリア諸侯との争いやドイツの皇帝の確執からも逃れ、それなりの平和を享受してルネサンスを先取りするように栄えた。p113
 
カトリック教会の強みとは、民族雑居のヨーロッパの中で、ラテン語を共通語にしながら複雑な権威体系を作り上げて使い分けてきたことだろう。
教会大分裂の危機で法王の権威がなくなっても、必要とあらば神聖ローマ帝国パリ大学という世俗の権威や学問の権威が出てきて事態を収拾にかかるという柔軟性があった。p116
 
ピウス5世(1566-72)はもとドミニコ会士の異端審問官で、白い修道服を着続けて、これまでの君主的法王から精神的リーダーへとイメージチェンジをはかった。これ以来法王は白服を着ることになる。p121
 
1870年のイタリア統一から1929年のラテラノ条約まで
ローマ法王が国家の首長としての俗権力を全く失い、しかし過去のように亡命したわけでなく、ともかくヴァティカン内部で宗教法人として機能していた期間
 
ラテラノ条約によって初めて法王は公式にイタリア国と首都ローマを認めた。
法王はヴァティカンを独立国としてその首長になる。
 
第4章 ヨハネパウロ2世と歴史の激動
 
西ヨーロッパがローマ・カトリックと二人三脚で歴史を築いてきたこと
ポーランドカトリック国であったこと
1978年に初めてのポーランド法王が誕生したこと
この三点は、実はソヴィエト共産主義の終焉を導いた最大の原動力である。
 
第5章 21世紀のローマ法王
 
第6章 ローマ法王と地球の未来
 
新法王は選ばれてから嘆きの間と呼ばれる更衣室で、自分の背負うことになる重荷を前にして一人泣くこととなっている。それからバルコニーに出ていく。p224
神曲第19歌の中のフレーズ「(法王の)法衣がいかに重いものであるか私は一か月余り身にしみて感じた。/それに比べれば他の職責はみな羽のように軽やかだ。」を思い出しました。)