瀬戸内文化誌 宮本常一 著 (前半・瀬戸内往来 等)

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瀬戸内文化誌
宮本常一 著
田村善次郎 編
八坂書房 発行
2018年1月30日 初版第1刷発行

瀬戸内・いまむかし
瀬戸内の文化
瀬戸内往来
内海の漁業とくらし
安芸と備後の漁村と漁業
の章に分け、宮本常一の文章を編集して掲載しています。

大阪が発達した原因の最も大きな条件は、瀬戸内海に面していたからではないか。
(更に言えば、瀬戸内海の突き当たりに位置していたからではないか。ちょうどヴェネツィアアドリア海の突き当たりに位置して発展したように)

万葉集巻一の額田王の歌

熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

新羅征伐(661)の途中、いまの愛媛県三津浜付近の海岸でよんだもの。
月を待つというのは月が出てから夜の海を行こうとするもので、いかにも風流のようにみえるが、実はそれだけではない。
この地方には「月の出八合、入中満」ということわざがある。これは月の出る時は潮は八合目までみちており、月の入るときには半分みちてきているということである。すると、この歌の月を待つのは潮の満ちてくるのを待っていたことがわかる。
そのころ瀬戸内海には港らしい港はない。最もよい港(泊)は砂浜であった。そこでたいていは満潮に船を岸に付け、潮が引くと浜の上にすわってしまうようにしておく。
潮が引いて砂浜の上にすわっていた船が、月の出で潮が八合目ほどみちてきて浮いたのであろう。
みちきると今度は下げ潮になる。その潮は豊後水道に向かって流れる。船は西へ向かうのだからその潮に乗れば脚も速い。潮が満ち船が浮き月がのぼる。やがて下げ潮になる。人々があわただしく船に乗ってこぎ出していく。
まことにあざやかな光景である。p120-121

瀬戸内海を船で航行した人たちの日記はいくつか残されいる。
外国人の書いたものには、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどのものがある。

エンゲルベルト・ケンペルはオランダ医師として長崎に来、元禄4年(1691)と元禄5年の二回、江戸へ旅行している。
一回目の江戸からの帰途、4月24日に兵庫を出て家島につけて飲料水を汲みこみ、風が無いので櫓を押して航行した。p167
(本土ではなく、家島につけて飲料水を汲みこんだのが不自然な気がする。島よりも本土の方が水が豊富だったように思われるが)

享和元年(1801)に名古屋の商人菱屋平七が長崎まで旅をした(筑紫紀行)
この紀行文では当時の港町の酒席がどういうものであったかを知ることが出来る。克明に遊びの有り様などについて書いてくれているので、船旅のさまを具体的に知ることが出来るが、今日風な言い方をすると、きわめてきれいに遊んでいる。
(きたなく遊んだ記録は残さなかっただけかもしれませんが・笑)