瀬戸内文化誌 宮本常一 著 (後半)

天正14年(1586)キリシタンのパードレ(宣教師)であるクエリヨは東上の途中家船の所見を次のように述べている。
筑前の海岸に沿うて博多を過ぎて諸島の間に出たとき、これまで見たことのないものを見た。我らの乗っていた船の付近に6~7艘の小さい漁舟があったが、此の舟は海夫の家々となり、妻子犬猫食物衣服および履物その他家財一切をのせ、各船には唯一人船尾に座って櫂を頭上に漕いでいたのである」
この家船風景は今日(この文が出版されたのは昭和35年)とほとんど変わっていないといっていい。
p234-235

愛媛県中島の粟井の寺に残る記録。江戸時代の中ごろから明治の初めまで空より下った、つまり高い所に住んでいたのが海岸へ出てきた家は100戸をこえている。
もとから海岸にあった村か、山からおりてきた村であるかは海岸を歩いていて船を見るとたいていわかる。
浜に引き上げている船が相似た小さいものであっても、もともと漁を目的としたものと、そうでないものは造り方が違っている。
百姓のもつものはイソフネとかヤマフネとか呼ばれ、農業に使用した。沖の島の畑に行ったり、肥料にする海草をとるために使用した。
p250-251

むかし北前船の船頭に桑名屋徳藏というものがいた。貧しい船頭ですき間だらけの家に住んでいたが、夜寝床の中から見ると、節穴を通して光って来る星があった。その星はいつまでたっても動かなかった。それに気がついて次の夜も寝床から見ると、やはり動いていない。そこで動かない星のあることを知って、その星を目当てに夜でも船に乗って人の二倍も仕事をして大もうけしたという。
ところがある年のこと、寝床から見ると節穴から星が見えない。どうしたことかと頭を動かして見ると、ちょうど枕の長さほど頭をずらしたところで星が見えた。何か異変がなければよいがと思ったが、それから間もなく病気で死んだという。
北極星が動かないことは知られて、これをキタノネノホシといった。
ネノホシ見当で船に乗るのは、船頭の中でも玄人中の玄人であったといわれる。p256-258

製塩のために要した薪の量の大きさが、塩田に近い山林をみるみるうちに丸はだかにしていった。
さらには沖の無人島へ薪を取りにいくようにもなった。こうして骸骨のようになった山や島も多かった。
一方、赤穂市坂越の沖にある生島は古い島の植物の姿をそのまま残しているものとして天然記念物になっている。
また神社の森も古い森の姿が残っていた。p288-289

津と名付けられたところは商船の着くことが多かったところである。
浦というのは漁民の住んだところと思われる。
また浜と名付けられたところには、揚浜塩田のあったところが多い。p299

従来の民俗学は、いわゆる口頭伝承を主たる資料として研究するものであった。
しかし宮本常一先生の方法は、人文地理的な景観(人文景観)と伝承(社会構造や慣習制度)を資料とし、さらに文献をも援用することによって、島嶼社会の変遷と現状を明らかにしていこうとするものであったといえる。p405