柳田國男 私の歩んできた道(後半)

五 好尚
塔の絵葉書
柳田所有の欧州の塔の絵葉書
独逸「ケルン」大寺の塔
仏蘭西「マルセーユ」の「ノートルダム、ド、ラ、ガルド」
同 巴里の「ノートルダム
洪牙利「ブダペスト」の「マチアス」寺
英吉利「ウエストミンスター」寺 二枚
英吉利「ストラトフォード、オン、アボン」の紀念塔
同 倫敦、聖波羅寺 p166-167

趣味のいろいろ
マッチ商標の採集

閉雲集 わが愛誦吟
芭蕉連句

アンケート 私の愛誦する去来作品とその鑑賞

野川にそひて 砧村から武蔵野村に至る
時 三月二十五日晴天。暖か。
人 柳田國男氏 小野武夫氏 今 和次郎氏

柳翁閑談 すずめ
スズメが親孝行な鳥で、親の死の知らせをきいて、化粧半ばでかけつけたという、スズメ孝行の昔話は、ひろく語られている。化粧中だったので、スズメはほおが汚いというのである。この話には、スズメに対して、キツツキやツバメが対照的に語られている。彼らは化粧して、親の臨終に間に合わなかったので、その報いとして虫を食べなければならないのに、親孝行のスズメは、穀物を食べることが出来るのだという由来話である。p189

 

六 向学
写生と論文

私の書斎

私の信条

私の仕事

わたしの方言研究
播州あたりは、もとはことばが卑しいからといって京都から笑われたんです。大阪の人も来て笑いますし。それに東京にも笑う奴がいるっていうんですからね。そのくせ村(辻川)じゃ、どうも竜野のことばは、なるほど猫まで訛るっていうのは訛がひどいね、なんてことを言いますでしょう。そういうことを、立場(たてば。人力車の中継所)と宿屋茶店でもってしょっちゅう問題にしているんです。実際方言の多趣味な時代だったんですね。p216

旧幕時代の姫路藩で江戸のことばは、大へん尊敬されていました。まあ、あらたまって使う侍のことばですね。江戸のことばに、いいことば、感じのいいことばだという印象を持っていたのは、恐らくどこの地方でも同じでしょう。p224

柳翁閑談 先達

 

七 次代へ
はなむけのことば 青年期の話

次の代のために
本来、故老のことばが尊重せられた理由というものは、それが専ら、群の記憶であり、また群のための伝承であったところにある。p238

昭和二十二年に望むこと(アンケート)

ほしいもの・したいこと

考えない文化

緑蔭対談 若い女性に望むこと
柳田と和辻哲郎の対談

穀母信仰のことども
母親と子供、生母信仰というものと、穀母、穀物の親と子供の関係のあることをどちらかの経験によって、どちらかと云えば、恐らく稲の方が早いのでしょうが、穀母信仰、穀童信仰と云いますが、子供ができるということ、云わば親の穀物から次の種子が育って来る、つまり遺伝ですね、そういうことをはっきり意識したのは、牛や馬をいじくって居るだけでは判らない訳ですね。動物の方は期間が長く、稲の方は一年一年と繰り返されますから、よく判るわけですね。それで遺伝とか相続とか言われ出したんだろうと云って居ます。p268

 

八 雜
明治人の感想

柳田國男翁聴き書き
昭和三十四年五月二十九日


付編 家族・親族に映じた人と生活
父 柳田國男のこと 柳田為正

父 國男と私 柳田為正

思い出すことなど 堀三千子

父・柳田國男の思い出 堀三千

「新国学談」のころ 堀一郎

思い出すまま 太田千津

雷の褌に河童の屁 喰眼録の由来 井上通泰

布川・布佐と叔父 國男 松岡文雄

叔父と私と遠野郷 松岡文雄

伯父のこと 松岡磐木

國男先生をめぐる若干のこぼれ話 安東幸正

情報誌『蟲・自然』に寄稿してくださった柳田先生 安東忠幸

叔父のことなど 矢田部勁吉

叔父 柳田國男への回想 木越二郎

甥の見た柳田國男 木越進

柳田さん 佐々木克

柳田先生の家 岩崎敏夫

 

解説
周知の通り、柳田は好んで散歩に出掛けた。先の堀三千の回想の中にも、「散歩を除いてのすべての時間は、研究に当てられるようになっていった。」とあったが、逆説的に言えば散歩こそはいつの場合にも、且つまた晩年に至るまで続けられたものである。p408

柳田國男の八十有余年に及ぶ全生涯の活動と業績は、日本民俗学のみならず、極めて広い範囲にわたっている。そのいずれもが卓越しており、それ故柳田に歌人、詩人、農政学者、大学講師、官吏、編集者、論説委員言語学者、方言学者、国語学者、政治思想家、旅行家、講演家、更には教育家などといった修辞を冠したとしても、あながち的外れという謗りを受けることにはならないのではないかと、編者は考えている。p411