アルルの入り口カヴァルリ門(フランス)

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ヤフーブログから移ってきて、これが記念すべき最初の記事になります。
古の写真で巡るフランスシリーズ、今回からアルル編となります。
今から約20年前の訪問です。
この時はアヴィニョンから電車に乗り、途中でバスに乗り換えてアルルに着きました。
そしてバスを降りて、アルルの北の城門であるカヴァルリ門の前で写真を撮っていました。
このような城門は、その街の歴史と風格が感じられて、街に入城する喜びと、更には覚悟のようなものまで感じさせてくれます。
ちなみに画家のゴッホがアルルに着いたのは1888年2月20日とのこと。
その時、彼はどんな気持ちでこの門をくぐったのでしょうか。
城門の向こうに見えるのはアカシアホテルです。
この時はピンクがかった色調でしたが、グーグルマップで確認すると今は黄色系の色になっていました。
ゴッホの家とかを意識しているのでしょうか?

ニームのサント=ペルペデュ教会(フランス)

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古の写真で巡るフランスのニーム編、主に古代ローマ関係遺跡の画像が多かったのですが、ニームの最後はこの写真を撮っていました。
ファサードとそれに伴う尖塔の美しさに魅かれていたのかもしれません。
改めてグーグルマップ等で確認すると、サント=ペルペデュ教会とのことです。
教会名は聖女ペルペデュという、3世紀に殉教した聖人に由来していると思われます。
1864年完成という比較的新しい教会ですが、1852年の起工式の時には、ナポレオン三世により、最初の石が置かれたという由緒があるそうです。
あと、この教会の前にあるテントは露店のものではないかと思われます。
午前中には大通り沿いに、多くの露店が開かれていたような記憶がかすかにあります。

ニーム訪問はこれで終わり、その日のうちにアヴィニョンに帰っていました。
翌日はアルルに向かっています。

ニームのアウグストゥス門(フランス)

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画像はニームアウグストゥス門、別名アルル門と呼ばれる古代ローマ遺跡です。
古代ニームの主要な城門の一つです。
入り口は4つあり、大きな中央の2つは車両通行用で、その両側の小さい入り口は歩行者用だった、とのことです。
右側の大きな入り口の向こうに黒っぽい像が見えます。これはこの遺跡の主役そのものであるアウグストゥス皇帝の像です。
城門に刻まれた文字には「シーザー(カエサル)神王の子息アウグストゥス皇帝は当植民地で執政官として11度目の任期を、護民官として8度目の任期を務めた時に城門と城壁を築いた」という内容が書かれているそうです。
前の道から見ると、門はかなり下の位置になっています。
長年堆積した地層が、古代と現代の高低差を生み出したようです。

森鴎外と日清・日露戦争

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森鷗外と日清・日露戦争
末延芳晴 著
2008年8月20日 初版第1刷
平凡社 発行

森鷗外の多様な面の中から、この本では日清・日露戦争従軍時に鷗外が経験したことや、様々な思い、また「うた日記」という戦争詩歌集、そして妻子への愛情や田山花袋との交流などが書かれています。 

ドイツでの鷗外は、西洋古典音楽の最も正統的な本流とされ、王候貴族や資産階級を主たる聴衆とするオペラや管弦楽にはあまり興味を示さず、代わりにビヤホールで賑やかに演奏される大衆的な歌や合奏、さらには異教的なユダヤ系のダンサーの踊りや音楽などに興味を示していった。p63

鷗外による、日露戦争従軍詩歌集「うた日記」
日本文学史上、例を見ない詩歌集であり、四百首を超える、新体詩風の長詩と長歌、短歌、俳句からなる。
それまではお互いに反発しあっていた陸軍軍医森林太郎と文学者森鴎外が初めて内部において出会い、合体融合したところで実現した稀有の実験的な詩歌集。p166

「うた日記」のカテゴリー
・公的抒情詩
・公的叙事・叙景詩
・私的抒情・幻想詩
・私的叙事・叙景詩

日露戦争従軍時における、妻志げに対する手紙より
明治末期の時点で、鷗外ほど手紙を通してストレートに妻に対する愛情を表現した文学者は他にいなかったのではないかと思えてくる。
また、さらにもう一歩踏み込んでいえば、一種の「ピグマリオン・コンプレックス」といったものがあったのではないか。
ピグマリオン・コンプレックス
キプロスの王ピグマリオンが、自ら象牙で彫り上げた女性の人形を偏愛したというギリシャ神話に端を発し、日本語では「人形偏愛症」と訳され、本来生命の宿っていない「物」としての人形、あるいは人形のように小さくて可愛らしいものを溺愛し、いつまでも自己の支配下においておこうとする心的態度。
映画「マイ・フェア・レディ」のような心的傾向をも
指して使われている。p292-293

遥かなる旅への追想 辻邦生 著

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遥かなる旅への追想
辻 邦生 著
1992年4月20日 発行
新潮社 発行

「旅への追想から」「歴史の奔流から」「同時代の視線から」「魅惑のパリから」の四章にわたって、紀行文から帯の推薦文まで、長短織り交ぜたエッセイ集となっています。
舞台はヨーロッパ全般ですが、やはりどうしてもフランス中心に書かれています。

1968年に初めてソヴィエトを訪問した筆者。
同行の埴谷雄高が持っていた、レニングラードドストエフスキーの文学地図をなくしてしまう。
当時、地図はホテルで取り上げられることもしばしばあったという。

1969年の9月、パリから汽車でモスクワに向かう筆者。
夜明けになって、朝霧の中の、みずみずしい緑の白樺林が続く。
「ぼくのロシア」を発見する。

1977年の旧ソヴィエトの旅。
キエフでのガイドのすさましい日本語。
ウラジオストックで日本のラジオを聴いて日本語を勉強した。

フランスでは地方ごとに屋根の色が違う。
おそらくどんな素材が手に入りやすいかによるものだろう。
ロワール河口からナントまでは赤瓦だったが、アンジュからソーミュールまでは黒スレート葺きとなり、トゥールに近づくと、また赤瓦になる。
ともあれ、統一のある色調は何より美しい。

10月のマルセーユ
落日を見ていると、ランボーの詩を思い出す。

Elle est retrouvée.
Quoi? —L’Eternité.
C’est la mer allée.
Avec le soleil.

また見つかった
何が? 永遠が
海にとけゆく
太陽が

いったいランボーはどんな気持ちでマルセーユのこの落日を見たか。

ニームの古代ローマ貯水槽(Castellum Aquae)

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画像はニーム古代ローマ時代の貯水槽です。
紀元1世紀中ごろに造られました。
大きさは直径5.9m、深さ1.4mです。
ユゼスの泉からここニームまで、なんと50㎞の導水路を建設しました。かの有名な水道橋であるポン・デュ・ガールもその一部です。
画像中央の四角い取水口からその導水路の水が入ってきます。
そしてここで貯水し、不純物を金網のようなものに水を通したり、沈殿させたりして取り除きます。
沈殿には貯水槽の底にある三つの排水口を使ったのかもしれません。
それから丸い穴の部分から鉛の配水管を使って、ニームの大建造物や給水所などのさまざまな
地区に配水していたようです。
こういう形式の遺跡は、ここ以外ではポンペイのものが現存する唯一のものだそうです。
ポンペイのものは、貯水槽を覆う外側の建物もあるようですが、ニームはそこまでは残っていません。
地味ですが、貴重な古代ローマ遺跡と言えるでしょう。

ラテン語ではここはCastellum Aquaeと書かれています。
Castellumは城とか城塞を意味します。
城塞というものは兵士を集めて駐留させ、必要に応じて出動させるという役割があります。
兵士を水に置き換えると同じような役割があることから、この単語を使ったのかもしれません。

ローマ人の物語Ⅹ すべての道はローマに通ず も参考にしました)


マーニュ塔からのいい眺め(ニーム、フランス)

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マーニュ塔からニームの街並みを眺めます。
一枚目は中心街です。
この日は霞がかったように、薄ぼんやりしていました。
全体的には橙色と黄土色の間の色になるのでしょうか?どの色名で表現したらいいのかよくわかりません。
そんな中、中央の白い建物がやや目立ちます。
これは以前紹介したカレ・ダールだと思われます。
そこから上に伸びている緑はヴィクトル・ユゴー大通り(Boulevard Victor Hugo)でしょうか。
レ・ミゼラブルの作者にちなんだ大通り名です。
この大通りの突き当たり付近が円形闘技場となっていますが、この画像では、かなり見えにくくなっています。

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二枚目はその西、マーニュ塔の真下辺りの風景です。
真っ直ぐな並木通りが目立ちます。
これはジャン・ジョレス大通り(Boulevard Jean-Jaures)です。
このジョレスさんは、フランスの社会主義者の政治家です。
平和主義者で、なおかつ暗殺という悲劇的な最期を遂げたこともあり、フランスでは今でもカリスマ的な人気があります。
このような大通りにその名前が使われていることからでも、彼のフランスでの存在感の大きさを認識できます。
グルノーブルでも、大通りに彼の名前が使われていたのを見かけましたが、そもそもフランス全土で彼の名前がついた通りや広場は2013年時点で2345市町村(コミューン)にも及ぶそうです。

(フランス現代史 隠された記憶 宮川裕章 著 を参考にしました)