パリの聖月曜日 6~9章より

1830年に14歳で見習い石工としてパリに出稼ぎに来て、1848年まで石工の仕事をやり、その後政治活動に入ったマルタン・ナド
この時代のパリの職人の記録として貴重なものである。
 
当時の職人としての評判は、単に仕事が出来るだけでなく、腕っ節が強いということにもよっていた。
ショソンと呼ばれる足蹴り闘技あり、ナドもその道場に熱心に通っていた。
 
18世紀末、パリの街に響いた物売りの声。食料や日用品など様々な種類の物売りが歩いていた。
しかし19世紀の半ばになると、そのような声も消えていく。
これには小売業の発展と競争の激化が影響している。
1815年から1820年代にかけてのパッサージュの増大
ここに商店が並び、物売り人たちは追い出されてしまう。
また市内の交通量も多くなっていき、呼び売り人の存在が邪魔になってきた
 
ゴゲットと呼ばれる結社的な組織
民衆詩人の詩をシャンソンにしたものを、会員である労働者が居酒屋で共に集まって歌う集団
ここでのシャンソンは労働者の生活感情や希望を歌うこととなり、新聞の役割を果たすことにもなった。
 
民衆運動、労働運動は大部分の場合、職種を同じくする少数の労働者グループが職場に回状をまわすことにより形成される。このことはストライキが事前に組織により準備されたものではないことを示す。だからストライキは「即興的な運動」であった。
 
当時のストライキ運動の前提となりその可能性を支えていたのは、労働者の生活圏=文化の自律性であった。