19世紀までのパリの水について(パリの聖月曜日 より)

1825年、パリにウルク運河が完成する。
これによりパリへの給水量は飛躍的に増大した。
他は水源泉、水道、水力ポンプ揚水場、蒸気ポンプ揚水場、私設給水場、セーヌ川より取水した水売り人だった。
ウルク運河は全体の60%占めていた。それ以前のパリへの給水量がいかに少なかったかということも意味している。
 
パリの水道の歴史
四世紀にローマ人は、パリの南15キロメートルのランジスの台地から、主として地下通路によりパリのセーヌ左岸にあった彼らの浴場に水を引き入れた。
十二世紀の頃、修道院が鉛の導管や地下水路で修道院の給水泉に水を引いた。
十三世紀にはこの二つの水路の水で、パリで初めてといわれる三つの公共用の給水泉が出現する。
1606年アンリ四世は水力ポンプを利用してセーヌ川の水をくみ上げる揚水場の建設を命じた。
1613年、前述のローマ人の水道のあとをたどって、再びランジスの水源を利用するため、アルクィユ水道が着工される。
1782年ペリエ兄弟の給水会社により、シャイヨ蒸気ポンプ揚水場の給水開始
そして1787年グロ・カイユウ蒸気ポンプ揚水場の建設
1802年ナポレオンの決断によりウルク運河の工事が開始される
 
公衆浴場や移動浴場などがあったが、庶民には手が届かないもので、せいぜいセーヌ川の水浴場くらいであった。
 
19世紀、パリの膨張する都市の機能を支えるためにウルク運河は一定の役割を果たしたが、それでもパリは常に水不足に直面していた。
1832年のパリでのコレラ流行は、こうした状況に直面する都市の病理を露呈するものだった。
 
古代ローマ時代に、水源から水を引いて豊富な水を浴場などに使うことが出来たのと比べても、当時のパリが衛生状態からして悪かったのが理解できます)