ルイス・フロイス 吉川弘文館

ルイス・フロイス 吉川弘文館 表紙

 

ルイス・フロイス
五野井隆史 著
日本歴史学会 編集
吉川弘文館 発行
2020年(令和2)2月1日 第1版第1刷発行

はしがき
フロイスの名が広く知られるようになったのは、彼が執筆した日本におけるイエズス会の宣教活動の歴史、いわゆる「日本史」が翻訳・紹介されてからである。
「日本史」の第一部は、ゲオルグ・シュールハメル師によってポルトガル語からドイツ語に訳されて1926年に出版された。p5-6

第一 おいたち
一 生年と出自
1532年(天文元)頃、ポルトガル王国の都リスボンに生まれた。

二 王室付き書記・イエズス会入会
1548年、17歳の時に当時務めていた王室付き書記官を辞めてイエズス会に入った。

 

第二 インド渡航・司祭への道
一 インド渡航
1548年3月、イエズス会の第四次インド派遣の宣教師団が二隻のナウ船(大型帆船)でリスボンからインドに出発した。それにフロイスも修道士として乗船した。

二 バサインでの宣教活動
バサインはゴアの北約360キロの地にあり、ポルトガルが確保していた要塞都市の中で第三の重要な都市とされた。p20-21

三 ゴアにおける学業

四 マラッカに逗留

五 司祭叙階

六 上長らのフロイス
バサイン・マラッカ・ゴアにおける14年間は、彼が宣教師として自覚を深め、報告執筆者としての責務と自信を強く認識・確信する期間であった。p44

 

第三 日本における宣教開始
一 横瀬浦(肥前大村領)上陸
フロイスが日本派遣に選ばれたのは、彼の異文化社会に対する適応能力、および世事に対する処理能力の高さが評価されていたためだろう。p46

二 トルレス神父の盛式誓願横瀬浦焼亡

三 度島(多久島)での生活

四 ポルトガル船の平戸再来航とフロイス

 

第四 京都・畿内宣教
一 上洛
伊予の堀江(愛媛県松山市)では、補陀落渡りが話題になっていた。補陀落渡りの観音信仰は当時全国で流行していた。
フロイスには生きたまま死ぬ行為は奇異なことであった。p69
(和歌山での補陀落渡りは聞いたことがありましたが。フロイスならずとも奇異な行為だと思います)

二 最初の京都居住と将軍義輝叛逆
仏僧に洗礼を授けるフロイス
京都での生活では、めまぐるしく変転する政治状況に翻弄されて、時間の流れの速さと、仏教と仏教寺院勢力が日本社会に占める存在の大きさを痛感した。p76

三 堺とその近在における宣教活動

 

四 京都帰還・信長の知遇
家臣たちを驚かせたのは、信長自身がフロイスに晩餐を供するために食膳を持ってきたことであった。p121

五 上長カブラルの上洛とフロイス
カブラル神父は、日本のイエズス会の総責任者として畿内地方の同会の活動とキリシタン教界の実情を把握することを責務とした。
絹の修道服を禁止し、木綿の修道服にしたカブラル

公家の烏丸殿(光康)など有力な地位ある人物五、六人が説教聴聞に来たが、受洗の決断には至らなかった。p142

1574年、フロイスはオルガンティーノと共に一年間、法華経八巻を購読したことを述べている。
仏典を学び、その知識がなければ彼らをキリスト教に改宗させることは難しいと痛感し、また一方でキリスト教の独自性を保つことができないと考えていた。p144

六 南蛮寺建立とフロイス
フロイスは南蛮寺の意義を「二人のモーロ人(イスラム教徒)がローマかリスボンで、わざと私たちの教会の傍らにメスキータ(回教寺院)を建てるのを、今私たちが見るようなものである」とゴア及びヨーロッパに発信している。p152

上洛半年にして追放され、ヴィエラの後継者として小舟で荒海を航海し続け、信長の大船に助けられて、同地方における宣教の基礎を固めることができたフロイスは、窮地にあってしばしば信長に助けを求め、少なくとも12回は彼に面会した。信長もこの異国人の話す異国の政治と社会と生活に耳を傾けた。p155

 

第五 豊後赴任と宗麟の改宗
一 豊後への転任
カブラルはフロイスの健康状態を配慮して、京都の厳しい冬を避け、温暖な豊後臼杵への転地を命じた。p157

二 宗麟の改宗とフロイス
カブラルはフロイスの健康状態だけでなく、大友宗麟改宗のためにフロイスの力量に期待したのでは?p169

三 巡察師の豊後滞在と上洛

 

第六 準管区長秘書就任と年報執筆
一 準管区長秘書に就任
1581年12月に作成された「名簿」には、フロイスが準管区長コエリョの同伴者、すなわち秘書として記載される。

二 日本年報とフロイス

三 準管区長の大坂城訪問に随行
大坂城豊臣秀吉を訪問

コエリョ上洛の途中、高山右近が1585年に所領替によって高槻から明石に異動しており、明石に寄港したが、右近は大坂に出仕していて不在だった。p223

四 日本史の執筆
執筆に四年を費やす。
フロイスの「日本史」執筆の基本姿勢には、宗教家・宣教師というよりは、歴史家としての面目を保とうとする意志が強く働いていたと見ることができる。p243

五 伴天連追放令フロイス
秀吉は、宣教師が大坂の一向宗の坊主よりも有害で危険な存在であると指弾し、五ヵ条からなる「定書」を通達し、20日以内に日本を退去すべしと命じた。これが所謂、伴天連追放令である。p252

 

第七 晩年
一 ヴァリニャーノの再来日とフロイス

二 マカオにおける憂愁

三 日本帰還後の動静
長崎で日本年報の編集・執筆に従事
二十六人の殉教報告が、フロイスの遺稿となる。
1597年7月20日に長崎の岬の教会に附属する修院で死没した。66歳。

おわりに
「日本史」が、キリスト教が伝来した戦国期の日本社会を詳細に活写しているために、日本の中世史解明に資するところは大きい。フロイスが自らの主張をまげてヴァリニャーノの要求に屈していたならば、多くの歴史的事実に光が当てられることはなかったであろう。彼は常に事実を、そして歴史的真実を伝えたいとする熱い思いがほとばしっていた。重量感のある長い文章は、彼の命そのものであった。p283