京都、パリ この美しくもイケズな街(第4・5章)

第4章 京都とパリの魅力、都市史
パリの不動産は外国人には理解できないくらい複雑。土地と上物である建物と、その建物のフォン・ド・コメルス(商業利用権)が別p152

東京では飯田橋と神楽坂が「東京のパリ」と言われている。
その理由の一説として、真ん中に、川ではないが旧お堀があり、右岸・左岸というイメージがあるから。p175-176
(そういえば、東京で通っていたフランス語学校は飯田橋にありました)

日本の建築は、幕府の統制から離れ「表現の自由」を獲得した。ヨーロッパの都市部では、いまだにあり得ない「自由」を。
ヨーロッパの建築家を大阪の道頓堀に連れて行くと、みんな感動する。
東京の隅田川沿いの金色の変な形のオブジェはフランス人のフィリップ・スタルク。p179
(表現の自由や多様性というものは大切なものだけれども、絶対的なものではない、とつくづく思う。不自由で多様性に欠けるヨーロッパの街並みの方が美しいと思います)

学生運動全盛の時、京都の京大そばの百万遍をパリのカルチェ・ラタンになぞらえていた。
あんなパチンコ屋や何やらあるところの、どこがカルチェ・ラタンなんやと、恥ずかしいなあ、と思う井上さん。p181

東京のメディアで働いている元京大生に、立て看板の支持者は多そう。一種のノスタルジーだろうか。
最近の立て看板は、60年代から70年代のそれより、質が落ちている。ずいぶん、デザインが下手になっている。p182

ハイデルベルグ大学の学園紛争の内ゲバで、ずいぶん校舎が傷んで、近所の住民からクレームが来た。これにどう対処するかという全学集会が開かれて、どこのセクトがどこを修繕するか話し合われた。日本の大学では考えられない。
やはり彼らには、それこそ文化的なDNAとして「街を守ろう。街を大事にしよう」という考えがあったらしい。前衛的であるはずの、学生運動の闘士たちにも。p185

ミラボー橋(Sous le pont Mirabeau)
アポリネールが自分を振って逃げてしまったマリー・ローランサンのことを追想して書いたもの。
しかしアポリネールの書簡集を読んでみると、アポリネールがいかにひどい男だったかよくわかる。SMが大好きで、ローランサンはそれが嫌で、逃げてしまったのかもしれない。p192

京都観光のガイドブックが充実してくるのは、江戸時代の中頃なら。そのころから、京都の経済力は落ちていて、京都の商人は本店機能を大阪に移しはじめる。
パリや日本も、街の力、国の力が衰えたころから、観光に目覚める。 

今パリにある有名ホテル、ほとんど全部イギリス系の名前
「ジョルジュ・サンク」はジョージ5世という意味p196

ヴェルサイユを造ったルイ14世と、パリを大改造したナポレオン3世は、インバウンドの恩人。彼らが造ったもののおかげで、今も世界中から観光客を呼べる。p201

第5章 京都とパリの食事情
パリがコンプレックスを抱いたことのある都市はローマだけ
ナポレオン時代までは、パリをローマのように作り替えるのが夢だった。p231

パリに今も繁栄をもたらしているナポレオン3世に、フランス人はもっと感謝すべき。
それなのに、パリにお墓を持ってくることさえ拒否している。
現在のフランス共和政は、第二帝政を倒して作られたという経緯があるにしても、あまりに薄情。p232

ローマ帝国崩壊から千年は、リヨンがパリよりも文化レベルははるかに高かった。
フランク王国が三つに分裂して、東フランク、西フランク、中部フランクになった。
そのうち中部フランクというのは、地中海からアルプスを越えて、リヨンに行ってディジョンを通ってフランドルへと抜ける。地中海と英仏海峡を結ぶ、中世ヨーロッパの大動脈。
この中部フランクの中心がリヨンで、そこで開かれる大市が中世の文化を支えていたから、食い物もリヨンが中心。p238