教養としての「フランス史」の読み方

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教養としてのフランス史の読み方 表紙
教養としての「フランス史」の読み方
福井憲彦 著
PHPエディターズ・グループ 発行
2019年10月8日 第1版第1刷発行


この本はまずフランス史を語り下ろして、それを編集するという形をとっているそうです。よって非常に読みやすく感じました。

カペー朝は1328年まで、15代341年間続いた。
これは歴代の王が直系の跡継ぎに恵まれた、から。
これは「カペー朝の奇跡」と呼ばれている。p64-65

フランス革命は従来言われていたような、「古い王政が頑固に市民の自由を抑圧していたので、市民が自由を求めて起こした革命」というほど単純なものではなかった。
むしろ現実は逆で、民衆は当初、強い中央集権のもとでの安定した生活を求めていた。p175

1789年10月から議会の法令づくりがはじまる。
その一つが、中央集権的な行政体制を可能とする、空間の改編。
プロヴァンス/州」を廃止し、「デパルトマン/県」を置いて、行政システム改編の基盤づくりにあたる。p201

 

1790年の段階では、市民・民衆は、革命のリーダー同様、国王のもと立憲王政を目指していた。
しかしルイ16世の情勢を読めない優柔不断な態度や、周囲に流されやすい性格が災いし、フランスが立憲王政の国として生まれ変わる機会を逃してしまった。p221

ナポレオンは歴史の正当な展開の上に立脚し、革命が生み出した「自由」という新たな文明的価値を広めるために占領に来た、という身勝手といえば実に身勝手な論理のもと、行動していた。p252

フランスにとってナポレオンは「ヤーヌス的存在」
独裁者と英雄という、プラスとマイナス両面を持った存在だった。p263
(毛沢東の、功績第一、誤り第二、という評価を思い出した)

 

イギリスは17世紀に政治的混乱をくぐり抜けて、18世紀中にすでに立憲王政の体制を成立させていた。
多くのヨーロッパ諸国が18~19世紀初頭にかけて直面していた様々な問題をすでにクリアしていた。p275

サン=シモン主義
科学技術を発展させることで政治は変わっていく、という考え
ユートピア社会主義とも言われる。p282

ナポレオン3世による第二帝政については時代錯誤的な政権、と考えるのが一般的だったが、最近では、ある種の開発独裁なのではないか、という見方もされている。p296-297

普仏戦争
プロイセンとフランスの戦争だと言われているが、ビスマルクバイエルンをはじめとするドイツ領邦諸国の協力を取り付けていたので、その実態は全ドイツ連合軍とフランス一国の戦争だった。最近では独仏戦争と表記されることも多い。p305

 

フランスにおいては、共和政とカトリック教会というのは、うまくなじむものではなかった。
共和政のスタンスは、あくまで個人の信仰の自由は認めるけれど、宗教がそれ以上の力を国家・社会に行使することは絶対に認めない、というもの。p329

第一次世界大戦
全国から兵士が動員されたために、戦死者の四割は農民、主戦場はフランス北部だった。
ほぼ全ての町や村に、「出征戦没兵士の記念碑」が建てられ、終戦の11月11日には毎年、記念集会がもたれる。1922年からは、この日は国民の祝日として制定されている。p364

世界恐慌の時のフランスは、経済の中心を大企業ではなく、中小企業が占めていた。その分恐慌の影響は少なかった。p376

 

パリ陥落の4日後、ドゴールは自由フランスを名乗り、イギリスのBBC放送を借りて、フランス国内に向けて発信していた。
でも、この時点のドゴールは、まだ軍隊も指揮権も持っていない、ほぼ単身に近い状態だった。軍人としても名を馳せていなかった。見ようによっては誇大妄想の大ぼら吹きに見えても不思議ではなかった。p397

1944年9月9日、ドゴールはフランス解放軍とともにパリに入る。
民間のレジスタンスには、ほとんど無視の姿勢をとっている。これにはレジスタンスが共産党と強く結びついていたのも関係しているのではないか。p399-400