旅のあとさき ナポレオンの見た夢

旅のあとさき ナポレオンの見た夢 表紙

 

旅のあとさき ナポレオンの見た夢
福田和也 著
講談社 発行
2008年4月24日 第一刷発行

2006年9月から2007年2月にかけて週刊誌に連載された紀行文です。
コルシカからフランス国内のナポレオンの足跡を追っています。
ゆかりの地訪問の傍ら、毎日豪華なフランス料理をたらふく食べ、高そうなワインを呑みまくる体力は凄いと思います。

朝焼けの島、コルシカ
コルシカ移民はシチリアと違い、アメリカ合衆国には根づかなかった。コルシカ人が定着したのは、ベネズエラプエルト・リコで、特にベネズエラでは石油業者やゴム園所有者のほとんどがコルシカ系だという。コルシカ出身の大統領も二人出ている。p51

フランス外人部隊は、殺人などを犯した犯罪者などのならず者の集まり、というイメージが流布しているが、それはロマンチックな幻想にすぎない。高度の訓練を受けたプロ集団だ。p84

サン=テグジュペリ自身は、王子さまというよりは、バオバブの木に近い人物だった。身長192センチで、体重が百数十キロという巨漢。
その自我は、身体よりも大きく、尊大だった。p87

 

南仏をゆく
ニースの「シャトー」頂上のテラスは、現在、「ニーチェのテラス」と呼ばれている。『ツァラトゥストラ』の断章の着想をここで得たと言われている。p114

最近、発見されたという遺跡の発見現場を通って、丘の頂上に赴いた。マティス・ファンの聖地ともいわれるマティス美術館がある。
ここが聖地と見なされるのは、ニースとその周辺がマティスにとって特別な土地だからだろう。p128-129

当初、ナポレオンはエルバ島で閑雅な余生を送るつもりだった。
にもかかわらずエルバ島から脱出した理由は
・退位の時になされた約束、年金支給と皇妃マリー・ルイーズと嗣子ローマ王との生活、が果たされなかった。
・フランス国内の混乱

 

シテ・ラデューズ(輝く都市)(ユニテ・ダビタシオン)はロンシャンの礼拝堂と並ぶ第二次世界大戦後の、ル・コルビジェの代表作。
全体の、特にピロティ(柱だけで構成された、建物の一階部分)の力感あふれる存在感と、上部の理知的な空間構成、そしてところどころに刻まれた、モデュロールと呼ばれる線刻やレリーフ、壁面など、全体構造から細部まで、あらゆるところに建築家の刻印が押されているのだ。
などと絶賛する福田さん。
それに対しドライバーのヴィルジニーは「地元では、あの家、メゾン・ファダっていうのよ」と嘯いた。ファダとは、マルセイユの方言で、狂気という意味。
(「ヨーロッパの町と村」グラフィック社p13によると、ユニテ・ダビタシオンは、世界中の住宅計画と建築デザイン・都市デザインに深甚な悪影響をもたらした、とのこと。住宅計画の悪影響としては、当時流行の社会主義思想を具体的な建造物として示したこと。都市デザインにおける悪影響としては、街路との縁を切ってしまったこと。現代のヨーロッパでは、モダニズム社会主義国家と同じように歴史的な大失敗と見なされているが、日本ではなぜかモダニズム建築や都市計画が今でも幅をきかせており、街並みの景観破壊につながる不恰好な集合住宅が生み出されてしまっている。このシテ・ラデューズ訪問記はフランス通の日本人と地元のフランス人のル・コルビジェに対する見方の対立が明確に現れていて、誠に興味深い)

 

だが、何といっても、ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の見物は眺望である。最高地点の名に恥じない。三百六十度の大パノラマには、興奮をおさえられない。フォトグラファーが、爆笑しながら撮影している。p190

 

ブルゴーニュの豪奢
ロレンツォ・イル・マニーフィコ(大ロレンツォ)のフィレンツェルイ14世のフランス、フリードリヒ大王のプロイセンマリア・テレジアのウィーン、そしてナポレオンとその甥ナポレオン三世にいたるまで、覇権への意志と派手な宮廷生活は緊密な関係をもっていた。その端緒がブルゴーニュのバロア家四代にあったのだ。
今日、われわれがもっている、ヨーロッパ宮廷のイメージ、ヴェルサイユ宮殿シェーンブルン宮殿での壮麗な舞踏会といったものの原型もまた、ここブルゴーニュが源だ。p204

植民地政策
ジェノヴァ
その土地から、どれだけの金を長期にわたって搾りとることができるか
イギリスによるインドやミャンマー支配
・フランス型
同化政策、建前だけでも同じ権利、同じ法律

 

七世紀前後まで、フランスの平地もほとんどは鬱蒼とした、森であった。その森を畑に変えたのは、クリュニー会などの修道院だった。
西欧の修道院は、オリエントの修道院のように激しい苦行を採用せず、労働を奨励した。それにより、経済的基盤を確保した。p224-225

ブリエンヌの士官学校で、ラテン語をみっちりと教えられたナポレオン。
タキトゥスウェルギリウスキケロセネカといったラテン文学の古典に接したことは、雄弁家ナポレオンを生むうえで決定的なことだったからである。戦場で、議場で、歓喜の宴で、常にナポレオンが兵士たちを熱狂させることができたのは、古代ローマの雄弁家たちのレトリックを、ブリエンヌでみっちり叩きこまれたからだった。
そして、何よりも、ローマ時代の著述家、プルターク(プルタルコス)の『英雄伝(対比列伝)』に出会わなければ、19世紀にアレクサンダー、カエサルになろうとする野望は生まれなかったろう。p227-228
(マキャヴェリも、チェーザレ・ボルジアに会った時、古代の偉人を勉強する必要があると感じて、この本を探していました)

 

ブリエンヌでの暮らしはナポレオン少年にとって悲惨なものだった。いじめられ、貧しかった。
しかしこの孤独により、衆をたのまず浩然と機会を待つことのできる精神の、叩けば金属質の音がするような硬さと純度はブリエンヌで培われた。

金のかかる騎兵将校や歩兵将校になれなかったナポレオン。
社交とは無縁で、得意な数学の能力をいかせる砲兵を選ぶ。
ナポレオンがナポレオンになるにあたって、砲兵学をとおして学んだ、戦場の数量的把握という発想は、決定的だった。

 

パリの魔力、ジョセフィーヌ
ナポレオンの墓があるアンヴァリッドに近寄ると、まず圧倒されてしまうのは、前庭から建物までの距離の長さだ。川辺から鉄柵のつらなる入り口まで、芝生が広がっているのだが、それが五百メートルくらいあるのだ。建物を前にしているのに、歩いても歩いても近くならない、という不思議な感覚を味わわされる。p262

1921年、皇太子裕仁、つまり後の昭和天皇アンヴァリッドを訪問している。その前に、ナポレオンの墓に詣でた日本の公子がいた。徳川昭武である。p266-267