ノートルダム フランスの魂(前半)

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ノートルダム フランスの魂 表紙

ノートルダム フランスの魂
アニエス・ポワリエ 著
木下哲夫 訳
白水社 発行
2021年4月10日 発行

2019年4月15日、火災に遭ったパリのノートルダム大聖堂
その時の緊迫した状況や、その後の再建に向けての混乱、
そして大聖堂建築時に遡り、そこから各時代のノートルダムを舞台にした出来事まで、生き生きと描かれています。

まえがき、より
ノートルダムは人類が建築の分野で成し遂げた最も偉大な成果のひとつであり、文明の顔、国家の魂である。神聖なのに世俗的、ゴシック様式なのに革新的、中世のものなのにロマンティックなノートルダムは、神を信じる者にも信じない者にも、キリスト教の信者にもそうでない者にも神と出会い、難を避ける場をつねに提供してきた。

1 2019年4月15日 火災の夜
「ある夜、わたしは死んだ」 フィリップ・ヴィルヌーヴ

ノートルダムの火災の鎮火のため、聖遺物を破滅から救うため、建物自体の崩壊を防ぐため、消防士や様々な関係者たちの緊迫した一夜

2 1163年 礎石
「いつの日かこの偉大な建造物が完成した暁には、比較を絶するものとなろう」 ロベール・ド・トリニー

12世紀半ば、首都パリはいましも経済、政治、地域、文化、芸術すべての面で驚異的な拡張を始める門口に立っていた。p47
少しずつパリは四通りの使命を我が物とする。
国王の都、商都、司教の都、そして大学都市として。
「学校が続々と現れる狭い小路に新たな精神が誕生した」p51

ノートルダム・ド・パリの建設、そしてより広くはシテ島の色直しの資金を出したのは誰なのだろうか?
下は貧しいパリ市民から、上は国王と側近に至るまで寄付をしたが、大部分はモーリス・ド・シュリー司教の職に伴う莫大な収入が出所だったらしい。p52-53

西側の正面では、多数の住居を根こそぎ取り壊すには、シュリーに買い上げてもらわなければならない。しかし厄介な家主がいて、ある夫婦には取引を完了するには、教区側が譲歩を重ねても、三十年を要した。p60

3 1594年と1638年 ブルボン王朝
「パリはミサを捧げるに値する!」「レ・カケ・ド・ラクーシェ」(諷刺雑誌)

パリに逆らって統治は叶わないと悟り、カトリックに改宗してノートルダムに参拝し、新旧教徒争う三十年にわたる戦争により分断された国家の融和を成し遂げたアンリ四世

アンリの息子、ルイ13世は王冠とフランスの命運をノートルダム聖母マリアに奉献する。

4 1789年 理性、最高存在、そしてワイン
「授任式は宗教的であるべきであったのに、ほぼすべて軍隊式だった」

1789年7月14日のバスティーユ襲撃は、一大事としてフランス人のDNAに、全世界の想像力に刻印された。
ところがその翌日にはノートルダムに集い、勝利のテ・デウムで祝ったことを覚えている人はほとんどいない。

革命、そして恐怖政治の間、オルガニストは聖歌に替えて革命歌と「ラ・マルセイエーズ」を奏す。
革命派にできたのは、聖母の黄金の王冠を取り去り、ファサードの28名の王の首を取っただけ。

恐怖政治の間は最高存在を称える祭典が行われ、ノートルダムの他の部分はワインを保管する倉庫に転用された。p86

5 1804年 ナポレオンの戴冠式
「皇帝万歳!」

ナポレオンがノートルダムを当初の信仰へ復帰させる。
そして戴冠式を執り行うことにより、ノートルダムをフランスの公的、政治的な営みの中心に据える。

ナポレオンの自ら戴冠する行為の前列は、複数のスペイン国王とロシア皇帝がすでに試みていた。
しかし教皇の面前で執り行なわれたことは絶えてない。p95

6 1831年 ヴィクトル・ユゴーの小説はいかにしてノートルダムを救ったか
「これがあれを救うだろう」

ユゴーの仮説
歴史が始まって以来十五世紀まで、建築は人類の書物だった。
印刷の発明はしたがって建築の死を意味する。
ゴシック様式の大聖堂は建築の精華、大聖堂は石でできた最後の、そして最高の一冊にほかならない。p114-115

ユゴーノートルダムの小説で二つのことを成し遂げようと思った。
・一時の流行とは異なるまっとうな中世の姿を描くこと
・フランスの歴史的建造物の置かれた惨状、崩落するにまかせ、やがては不動産開発業者の手であっさり取り壊される現況への意識を高めること