永遠の画家 佐伯祐三(後半)

1926年(大正15年)28歳4月上旬
佐伯祐三家族は東京下落合のアトリエに帰る
東京で「下落合風景」、大阪で「滞船」の連作
更に積極的にヨーロッパ的風景を求めて、大阪の「肥後橋風景」や東京の「ガード風景」など連作するが、筆を途中で置いた。これらの風景には、パリの硬質空間と対峙した最初の戸惑いと同じような困惑を感じたからであろう。そこには、あまりに湿的な日本風景だけがあった。
パリのモチーフへの強い願望

1927年 第二次渡欧
今度はシベリア鉄道を使っての渡欧
出発時の暗い予感。忍び寄る死の影

パリ到着後、10月、ブールヴァール・デュ・モンパルナス162番三階のアトリエに移る。

藤田嗣治と佐伯
東洋の造形の基点に線と色彩の解釈でヨーロッパの造形に肉薄しようとする。
佐伯の第二次渡欧により造形の起点に黒=墨の色と線の持つ意味の開眼を行い、モティーフの選択により明確に佐伯祐三という自己を確立していった。
2人の作家の黒を使う筆触において、藤田はあの乳白のマティエールの裸婦の輪郭づけに抑揚のある線を引き、佐伯は多質な筆線を駆使して戦慄する作家の鼓動を定着づけた。p240 241

1928年(昭和3年)2月 ヴィリエ・シュル・モランとサンジェルマン・シュル・モランへの写生旅行
寒い中での肉体の酷使
4つに大別出来るモティー
,△蕕罎覲囘戮ら教会の造形を把握しようとした作品群
教会裏から小高い丘に登って、教会を中心とした村の集落を俯瞰し対するような稜線をその背後に置いた作品群
「納屋」「村役場」「煉瓦焼場」「モラン風景」などの教会周辺に密集しているモチーフ
佐伯の死後五十年過ぎても、再び同じ形で新築する頑固なフランス人の性格に驚く筆者
ぁ屮曠謄襪涼翊蹇廚里茲Δ紡爾瞭錡鐡風景をとらえた作品p250-251

1928年8月16日 死去
同年同月30日、愛児弥智子も結核のため死去
同年10月31日、米子夫人が二人の遺骨を持って帰国