永遠の画家 佐伯祐三(前半)

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永遠の画家 佐伯祐三
朝日晃 著
講談社 発行
昭和53年9月28日 第1刷発行

画家、佐伯祐三の伝記です。
著者は執筆に当たり「佐伯の芸術と本質的に無関係な興味的部分はむしろさけた。逆にその本質を理解するための事実関係、年譜の訂正にはわたしなりの時間をかけたつもりである」と書いておられる通り、硬派な伝記に仕上がっています。

1898年(明治31年)大阪府に生まれる。
1923年11月29日、神戸港を出帆してパリへ
当時パリに行く方法としては、アメリカ経由は別として、欧州航路の船で出発する方法と、パリと東京二週間の早道といわれたシベリア鉄道を利用する方法とがあった。

1924年夏、里見勝蔵に同行し50号の〈裸婦〉を持って、オーヴェル・シュル・ロワーズにヴラマンクを訪れる。この時「このアカデミズム!」という記念的怒号を受ける。
ヴラマンクが日本の黒田清輝藤島武二の仕事を、ましてや日本の美術学校教育を知っているわせではない。やはり、その時持ち込んだ佐伯の作品に対しては、フォーヴィズム以後の今世紀の絵画史の展開を、身を持って生き、さらに個性の展開をエコール・ド・パリの中で発揮しようとする47歳の勇敢なヴラマンクの新鮮な眼で見て、全く歴史の前後史も知らない皮相そのものの若い佐伯を、遠慮なく大人の眼で批判したものであったろう。p119

ヴラマンク訪問、怒号、模索期、里見の帰国、クラマールからリュ・デュ・シャトーへの転居を経て、ユトリロを好きになる。ユトリロにおける趣味性(シュミ)をあげその大きな力を感じ始めている。その意識の内部には、ヴラマンクからの移行がじわじわ台頭しているのが見える。p143-144

1926年1月上旬イタリア経由して帰国
ローマでミケランジェロの天井画「最後の審判」を床に寝て仰ぎ、監視人に注意される。
(確かにあの絵を立って仰ぎ見るのはツラい・笑)

東京朝日の坂崎記者による、帰国後の佐伯評より
ヴラマンクの黒、ユトリロの白に対して佐伯氏は青および褐色である。また構図の方面から見る時は両作家が風景を描く多く概観的見方をしているのに比べて、佐伯氏がこれの部分的取り扱いにおいて多くの成功をかえて居る。
坂崎記者は色彩と構図から、店頭をモチーフにした作品群をとっている
それが佐伯の佐伯らしい作品として、ヴラマンクユトリロからの離脱と認めている。p208