大聖堂 (文庫クセジュより)

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大聖堂
パトリック・ドゥムイ 著
2010年1月30日 発行

大聖堂、とは、司教の座が置かれた教会のことである。必ずしも規模の大きさではない。例えばウルムの教会はその規模は大きいが、それはあくまで小教区教会である。

ミラノの勅令(313年)のキリスト教公認により、コンスタンティヌス帝はキリスト教徒迫害に終止符を打っただけでなく、キリスト教会に対し、法人として不動産を所有することを認可した。
コンスタンティヌス帝がサン・ジョバンニ寺院を建てるのにバシリカ様式を取り入れた。
シリカとはもともと裁判所や玉座の間など公共建築物に用いられた様式で、フォロ・ロマーノにある通称「マクセンティウスのバシリカ」の遺跡に、その面影がしのばれる。

大聖堂は建物を支える構造が壁から抜け出し、巨大な蜘蛛の足のごとく、建物の外側に展開している一方で、建物本来がまるで骨組みだけになり、ガラス窓が大きく開かれたその壁面は建物を支える役割から解放され、薄い充填材のようなものになってしまっている。

新しい大聖堂を造るときに、取り壊された旧大聖堂の石は最大限に活用された。
それは節約のためばかりでなく、、それらの石は聖化されていると考えられたからである。
また新しい大聖堂は、旧聖堂より大きくなるのが常だったから、特に過密な都市では敷地を確保するのが容易ではなかった。

大聖堂の建設現場はあくまで専門家だけの仕事場であり、職人である彼らは予算が許す範囲内で雇われたのである。
めったに無いことだが、巡礼者があふれ、寄付が続々と集まれば、工事ははかどる。シャルトルの場合、基礎部(基礎・壁・屋根)の工事は25年しかかからなかった。
しかしほとんどの場合、工事の進捗状況は極めて不規則だった。

ストラスブール大聖堂を見たゲーテ(「ドイツ建築」より)
大聖堂が視界に現れた瞬間、全く予期しなかった感情に襲われ、私は驚嘆の念に包まれた。見るものを圧倒する荘厳なる印象が、私の魂を満たしたのである。天上の喜びもかくやと思われる深い感動だった。

中世都市では、家々や参事会境内が、大聖堂を取り囲んで、控え壁の合間にまで入りこみ、シュベ(後陣)やファサードのすぐ下にまで迫っていた。そのため、聖堂前の広場はかなり狭かったのである。
大革命後、参事会の敷地や建物は国に没収されたうえ、売られたり、取り壊されたりした。
大聖堂と司教館をはじめとする様々な教会施設は分離されてしまった。
そして現代では、大聖堂は、広場の真ん中で、敷石の海に囲まれ、ぽつんと孤立した建物になってしまった。
大聖堂前の広場が、駐車場になったり、あるいは道路の交差点になったりしている場合がある。
フランスではこういう嘆かわしい光景に出くわすことが多い。ほとんど唯一の例外はストラスブールである。
ヨーロッパのほかの国々では先見の明が合ったようで、戦争で焼け野原になった都市は別として、このような悪しき都市整備は行われなかった。

(自分にとっては、フランスの象徴はゴシック大聖堂だと断言できる。今回のように、フランスで不幸な事件が起こったとき、心のよりどころとしてゴシック大聖堂の威容にすがりたくなる)