1890年 チェーホフ サハリンへ

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1890年4月21日 チェーホフ モスクワ発
ユーラシア大陸を鉄道、船、馬車を使い横断、7月11日 サハリンに到着
10月13日まで滞在
ユーラシア南沿岸を船を使い、12月8日 モスクワへ帰還
 
当時30歳のチェーホフ、サハリンで医者の立場から精力的に住民の聞き取り調査を行う。自作の調査カード7446枚
なぜ順調な作家としてのキャリアを捨ててまで、サハリンまで赴いたのか?
結核をわずらっての無謀な旅は自殺行為に近い。だから秘められた自殺願望があったのではないか?
創作上の行き詰まり打破する転機を求めたのか?
自分に付きまとう女性から逃れて、恋の深みにはまるのを避けたのか?
医者のしての社会的使命感か?
 
3年後の1893年から雑誌連載を開始し、95年に単行本として刊行されたルポルタージュサハリン島」は社会に大きな反響を呼び、これをきっかけとして当局も流刑囚の待遇をわずかながら改善した。
作家としての彼はけっして「社会の教師」にはならない冷静な観察者だったが
医者としての彼は、困難な社会的実践にも果敢に挑戦するヒューマニストだった。
 
チェーホフは青白くて病弱な作家という連想がはたらく。
しかし実際は身長182cmの、堂々としたがっしりした体格の、陽気で楽天的な南ロシア人であった。
 
NHK 100分 de 名著 2012年9月 チェーホフ「かもめ」
2012年(平成24年)9月1日発行  より