鷗外「小倉左遷」の謎

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鷗外「小倉左遷」の謎
石井郁男 著
葦書房 発行
1996年3月10日 初版第1刷発行
 
ドイツから帰国後、近衛師団軍医部長、陸軍軍医医学校校長でなおかつ美学抗議や「即興詩人」の翻訳、文芸評論など順風満帆だった鷗外。そこに突然降ってわいた小倉左遷、それは文学活動などで目立ったことにより、ライバルに蹴落とされたというのが通説だが、その説に真っ向から反論する。
 
この時代は日清戦争勝利の直後で、日露戦争の開戦前夜である。ここにその理由がありはしないか。
 
小倉左遷の直後、母親に宛てた手紙の中で「危急存亡の秋」という言葉。そこに左遷のショックとは別の、新たな危機が感じ取れる。
 
小倉左遷と、鷗外のクラウゼヴィッツ戦争論の翻訳、講義とのつながり。この道へと導いたのはだれか。
 
クラウゼヴィッツの「戦争論」による軍事作戦、戦争哲学の有無が、普仏戦争におけるプロイセンの勝利を生み出した。
 
鷗外のドイツ留学時に出会った「早川」という男。彼が鷗外にクラウゼヴィッツの存在を知らしめた。早川は本名を田村怡与造といい、甲斐の生まれ。
 
戦争論」とは
①ヨーロッパの主要な戦争の文献をもとに
②自分の戦争体験を加え分析、整理し
③さらにカント哲学の方法で一つの体系にまとめた
 
日清戦争で対立する田村怡与造と山県有朋。ここで山県は独断により失策する。しかしその後山県の長州閥と、田村の実力主義による反閥精神が対立する。
 
田村は鷗外を戦争論の翻訳に没頭させるため、まず多忙な東京から遠ざけることを考えた。そして日露戦争の予想戦場に近く、小倉の師団長は田村の、参謀長は鷗外の旧知の仲だった、戦術熱心な人物だった。
 
日露戦争の前、日本の情報将校は商人、僧侶、人夫などに変装し、ウラジオストック奉天で情報活動をしていた。
(このあたり、石光真清の著書に詳しい)
 
日露戦争について、鷗外の感想は「悲惨の極」というものだった。