咸臨丸、大海をゆく

イメージ 1

咸臨丸、大海をゆく
サンフランシスコ航海の真相
橋本進 著
海文堂出版 発行
2010年7月19日 初版発行

安政7年(万延元年・1860年)に出航した咸臨丸の航海における真実を、航海の専門家としての視点から叙述しています。
当時の困難な船旅における木村摂津守やキャプテン・ブルック、福沢諭吉中浜万次郎の苦労や偉大さともに、勝海舟の「人間くささ」もかえって魅力的に感じます。
司馬遼太郎先生が著書の中で「私はそれでも勝が好きなんです」と書いていたのを思い出しました。

咸臨丸の主な乗艦者
軍艦奉行 木村摂津守
教授方頭取 勝麟太郎勝海舟
通弁役 中浜万次郎土佐藩
木村摂津守従者 福沢諭吉(中津藩)
幕臣が多いが、他の藩出身の者もいる。また塩飽出身者もいた。
同乗者
アメリカ海軍大尉 ジョン・マーサー・ブルック と彼の部下10名

木村摂津守
往路の前半は悪天候のため船酔いで苦しむ
しかしサンフランシスコ入港前には普段の温厚で我慢強く、人の意見をよく聞いて実行する熟慮断行型の、乗組員の信望も厚い軍艦奉行に戻っていた。
ひどい船酔い。部屋から出てこない。リーダーシップも発揮できず。
勝は咸臨丸で自分の欠点ー自己中心の身の施し方と閉鎖社会での集団生活の不適格性を知ってからは、集団の外に自分を位置させるようになった。
咸臨丸に乗りたがった福沢諭吉。幕府役人の手づるを探す。
木村やブルック、中浜万次郎との出会い。

最初から日本人で荒天をものともせず活躍していたのは中浜万次郎、小野友五郎、浜口興右衛門の三人だけであった。p132

シーマンシップとは
純粋な航海技術(操船術、運用術など)を指す面と、その技術を支えるための船乗りとしてのマナー(海上生活の行動や慣習から自然と身に着いた心構えや身のこなし)を指す面があり、この両者が渾然一体となったものが日本語のシーマンシップであると考えられる。

船員にシーマンシップを教え込むブルック

勝の不平不満
木村との禄高の相違
航海一日に支払われる航海手当
木村と自分の身分に対する複雑な思い

キャプテン・ブルックの飲料水事件
アメリカ人水夫に対しても、日本人と平等な厳しい扱い

木村奉行による、当直体制の変更。名ばかりの当直体制を責任ある当直体制に組み替える。p180

間接操舵法と直接操舵法
舵柄を取る方向と船首の回る方向が逆になるのを間接操舵法、一致するのが直接操舵法
日露戦争での東郷の敵前第旋回やタイタニック号の惨事

従来、咸臨丸のサンフランシスコ航海と言えば勝海舟が指揮し、日本人のみによる快挙として喧伝されていた。
そこには文倉平次郎が「幕末軍艦咸臨丸」を出版した時期が関係している。この本が出版されたのは昭和13年の軍備拡張時であった。