須賀敦子のフランス③パリ

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1953年8月、須賀はパリのカルチェラタンカソリック団体経営の学生寮に寄宿する。
この年のパリはひどく寒かった。
また時代もフランスの敗戦となるインドシナ戦争の頃だった。
そんな須賀を慰めたのはノートルダム大聖堂の威容。
カテドラルに象徴される「ヨーロッパをつくりあげた精神や思考の構造の整然とした複雑さ」に魅せられ、どうしても自分の目で見つめなければならない、と思いつめていた。
そして初めて実際に見たとき
「それまで自分の中ではぐみそだててきた夢幻のカテドラルと、目の前に大きくそびえわだかまる現実のカテドラルが、きらきらふるえる朝の光の中で、たがいに呼びあい、求めあって、私の内部でひとつに重なった」
とある。

そんな苦しい日々でも、須賀は放課後、毎日のようにパンテオンの近くの図書館に勤勉に通っていた。
そしてその20年後には、フィレンツエの国立図書館に通う。
その「ふたつの国の言語を守り続ける、それぞれの国の図書館」で過ごした時間が、その後の彼女の中でゆっくりと醸成されていった。

(写真はセーヌ河沿いから見たノートルダム大聖堂です)