アストロラーベ 光り輝く中世科学の結実

アストロラーベ 光り輝く中世科学の結実 表紙

アストロラーベ

光り輝く中世科学の結実

セブ・フォーク 著

松浦俊輔 訳

柏書房 発行

2023年4月6日第1刷発行

 

中世のイングランドの修道士の一生を通して、観測や計算用の器具を中心に、中世の科学の成果を丹念に追っている、大変興味深い本です。

 

序章 謎の稿本

現実の中世は、科学的関心と探求による「光の時代」だった。

 

英語のscienceの元になった中世のラテン語scientiaは、一般的な意味での知識とか学問、あるいは思考の方法といった意味にもなりえた。あるいは数学や神学も含め、組織された知識の部門なら何でも指すことができた。

 

カンタベリー物語』のチョーサーらしき署名がある、アストロラーベ解説書と完璧に一致する稿本を見つける。

それは寄贈者にして書き手はイングランドのウェストウィックのジョンという修道士だった。

彼は14世紀後期に生きた、普通の修道士で、地方の荘園に生まれ、イングランド最大の大修道院で教育を受け、崖の上の修道分院に追われ、十字軍にも参加し、発明家であり、占星術師だった。

 

天文学は最初の数理科学だった。それなしに現代科学のモデルも公式も存在しえなかった。天体の規則正しい運行が神の完全さを明らかにするからと、天文学に関心を抱くのは当然だった。

実用的な意味も大きく、計時にも暦にも、地図や建築、航海や医療にも影響した。

 

第1章 WestwykとWestwick

当時の修道士の苗字と同様、ウェストウィックは地名であり、出身地を示している。

 

ジョン・ウェストウィックは20歳頃のセント・オールバンズ修道院入所までウェストウィックの荘園で育った。

 

紀元後1世紀に書かれたウェルギリウスによる『農耕詩』は中世イングランドではよく知られていた。

 

ローマ数字とインド・アラビア数字の決定的な違いは、後者には桁の値が組み込まれていたところだ。各桁の数字の意味は、紙面上やその数字の位置で決まる。

 

ノーサンブリアの修道士ベーダが八世紀に書いた、両指で9999までの数字を表す方法

 

第2章 時を数える

アストロラーベの使い方

夏でも冬でも、一日の本当の各時間を、疑問の余地のない方法で知ることができる

11世紀初頭、このイスラム科学の受容において、スイス・ドイツ国境のボーデン湖のライヒェナウ修道院のヘルマンと呼ばれる修道士が重要な役割を演じる。

 

太陽は常に、星座による周回コースを正確にたどり、一年で一周する。この道は「黄道」と呼ばれる。

 

二人のフランス人天文学者によって教皇のためにしつらえられた「新黄金数」方式というある案は『ベリー候のいとも豪華な時禱書』に残っている。

この豪華な絵入り時禱書については、美術性については正当に称えられるものの、天文学的内容については無視されることが多いのだが。

 

ウェストウィック修道士が大学で勉強する機会を得たかどうかはわからないが、後に本人が示した専門知識からすると、得られたとしか思えない。

 

第3章 組合(ウニウェルシタス)

大学は忽然と現れたのではなく、12世紀にアラビア語ギリシャ語の哲学・科学の著作が大量に翻訳されたのに触媒されて、修道院学校や聖堂学校の時代に、何世紀もかけて徐々に発達してきた。

 

リベラルアーツ(学芸科目)

「リベラル」というのは、奴隷でない自由な身分あるいは貴族にふさわしいとされたからであり

「アート」というのは今日のような美的活動という狭い意味を表すのではなく、学ぶに値する技能のことだった。

 

今日では、中世の学者は世界は平らだと信じていたと広く思われているが、それはおおむね19世紀に作られた伝説だ。

ワシントン・アーヴィングコロンブスを描いた作品の中で、無知な教会人に対しコロンブスが西へ航海するとインドに行けると論じたように描いた。あたかも科学と宗教が対立するように。

コロンブスの地理学的想定はウェストウィックの時代の人物、ピエール・ダイイの成果に基づいている。

 

セント・オールバンズの代々の院長が学生を大学に派遣することを止めなかった。この投資は修道院に学問の権威をもたらすという間接的な利益だけでなく、直接的にも修道士の教育水準を高めることになった。

修道院は学問の世界を巨大なネットワークにつながり、世界中の思想と本を持ち帰った。

ヨーロッパ共通語であるラテン語によって、パリでもパドヴァでもケルンでもケンブリッジでも仕事ができた。

今日、多国籍企業が社員をニューヨークから上海へ移動させるようなものだ。

 

第4章 アストロラーベアルビオン

アストロラーベは、これが持ち運べる装置だということ

 

アルビオンの重要な機能は、それ以前からある器具の属性をひとまとめにし、精巧にすることだった。

 

セント・オールバンズの最も辺鄙な分院は、イングランド北東端の地、タインマスにあった。

そこは代々の大修道院長が最も反抗的な修道士を送るところだったが、他方、頭抜けて野心的な修道士にとっては、ものすごくやりがいのある課題を提供する地位でもあった。

 

第5章 土星一室

タインマスは初期のイングランドキリスト教の中心として、この地域が重要だった。また修道士仲間の海との危うい関係だ。

ウェストウィックが北極方向、このタインマスへ向かって進む一歩一歩とともに、自分が丁寧に写した天文表の一つが少しずつ正確でなくなっていることを認識した。

 

第6章 司教の十字軍

1383年、ジョン・ウェストウィックは十字軍の旗を追って進んでいた。その頃はもう十字軍は古い制度になっていた。すでに300年経っていた。

 

中世の地図は、ちょっと見ただけでは恐ろしく不正確に見えるだろう。

地図はつねに何らかの問いに対する回答であり、一連の優先順位に対する応答だ。明瞭であることが大事か、それとも完全であることか。

通勤する人びとは、地面の形を歪めても簡潔になっている地下鉄の路線図を難なく利用している。

 

アレクサンダー・ネッカムは1157年、将来のリチャード一世王と同じ夜に生まれた。母は乳母で、右の胸で王子に乳を与え、自分の息子には左から与えたといわれた。

ネッカムはオックスフォードで教えていた。後にアウグスティノ会士となり、そしてイングランド西部の大修道院長になった。そこで1200年頃、最も重要な科学的著作「事物の性質について」を書いた。

ネッカムはラテン語の文法教科書に、初めて例として方位磁石を収録した。その本を書いたのはパリ留学中の事だった。

それから帰国し、ダンスタブルやセント・オールバンズのグラマースクールで教えたが、後にオックスフォードに移った。

著作の教科書の中に航海用具の節があったが、もしかすると、自身が英仏海峡を渡った船旅の記録に基づくのかもしれない。

悪天候で星が見えにくくなるといけないので、船にはふつう、「軸の上に載せた針」があり「それは回転して向きを変える・・・そうして船乗りはこぐま座北極星がある)が見えなくてもどちらへ舵を切るか知る」と書いている。

となると明らかに、ドライ式の方位磁石は1180年代には当たり前に使われていたということだ。

 

中世の巡礼や貿易にとって、水上の移動は陸上よりもずっと楽であることが多かった。海は障害ではなく、街道と考えるべきだろう。

 

あるペルシャ碩学は、船酔いをこらえる旅行者は、ざくろ、マルメロ、すっぱい葡萄の果汁を試すとよいだろう。しかし最もよいのは、慣れるまで我慢するだけだ、と言っていた。

 

第7章 惑星計算器

惑星計算器、エクァトリウムで惑星の正確な位置を出せるようにする。つまり惑星の動きを再現し、位置を計算する。

 

ウェストウィックがアストロラーベの手引書にチョーサーの名を挙げたいと思った最も重要な理由は、それが早くから当たりをとっていたこと、チョーサーが世に先駆けて学問に英語をつかったことだと私(著者)は思う。

 

プトレイマイオスよりずっと前から、天文学者にとって差し迫った問題は、惑星運動を説明することだった。惑星はジグザグに進むだけでなく、逆行したりする。

今では、逆行運動が生じるのは、太陽に近い方の惑星が、遠い方の惑星を追い越す、つまり両者が近い側にあるときに追いついて、内側から抜き去るときのことだというのがわかっている。

 

ジョン・ウェストウィックの取扱説明書は、学問の国際語、ラテン語ではなく、職人が使う中英語で書かれていた。この時期は英語が急速に発達する時期で、ラテン語やフランス語と自由に入り混じっていた。

つねに百年戦争が爆発寸前で、ますます愛国的になる政治的階層が、庶民の世俗的英語を民俗的統一のシンボルとして奨励しておりラテン語やフランス語での読み書き能力は徐々に衰え始めた。

この稿本には、ジョン・ウェストウィックが書いたことで英語に初登場した語句が20以上あった。それは天文学用語か自作器具の部品名だった。

 

ストア派の哲学者、セネカの言葉「人は教えながら学んでいる」

 

印刷とは、ただ学術書を今までよりもはるかに多量に作り、読まれるようにすることなのではない。

それによって複雑な図の模写が正確になり、天文暦が安価に大量生産できるようになったということだ。

 

コペルニクスが太陽を中心に置くことだという結論に達したいきさつそのものは歴史家の間で議論されている。

そのような系が成り立つようにすることができたのは、中世天文学者、多くはイスラム世界の天文学者が注意深く組み立てた幾何学によっていた。

もっとも重要な人物は、ペルシャ碩学、ナスィールッディーン・アル=トゥースィーだった。

彼はイランの北の果て、マラーガに大規模な天文台を建設する資金を出させた。

コペルニクスが自身の太陽中心天文学の数理を明らかにしようとしたときには、「マラーガ学派」やその後継者たちの成果のおかげをこうむっていた。

 

終章 謎の装置

中世から現代科学まで、破線でまっすぐではないが、一本の線が続いている。

中世において

・古典やアラビア語の文献を体系的に翻訳し、その研究拠点となる大学をもたらした

天文学への、そして占星術への強い関心から、人々が外の天の世界を見て、予測を検証し、天文表を編纂し、最終的に宇宙を再編するような理論を繰り上げる

・修道士が機械式時計をしつらえ、暦の正当性に異議を唱える

キリスト教徒がインド・アラビア数字を採用した。ヨーロッパ人が世界中の薬剤で実験。視覚と光のあれこれの理論を人間の知力を説明

錬金術師が現代化学で今も用いられている実践的方法を開発

・欧州人が地図作りや羅針盤の新技術に助けられ、海の向こうを探検し始める

・神によって秩序を与えられた宇宙をモデル化する複合的な器具を組み立てる

ニュートンが謙虚を装って「巨人たちの肩の上に立っている」と書いたその言葉は、本人が認識している以上に正しかっただけでなく、中世から受け継いだメタファーだった。

 

宗教が科学の進歩に対する障害ではなかった。中世のキリスト教徒が、異教の学問を偏見なく尊重し、吸収してきた。

それらの対立に火をつけたのは、主として政治的因子、個人的因子だった。