はじめて学ぶ西洋古代史 第Ⅱ部 ローマ

オランジュ古代ローマ劇場壁面のアウグストゥス立像

 

第Ⅱ部 ローマ
第8章 ローマ帝国の形成 西洋型帝国の原型
「現実主義(リアリズム)」とは、国際関係を決めるのは「力」であるというもので、これは古代ギリシアのトゥキュディデスに遡る考え方。ローマ拡大時の地中海世界でもこのような原理が働いており、カルタゴヘレニズム世界の諸王国もローマと同じようにその立場を軍事力に依存していた。p159

 

第9章 元首政期 皇帝を通して見るローマ帝国
オクタウィアヌス(アウグストゥス)は元オクタウィウスという意味
オクタウィウスがインペラトルカエサル・神の息子と改名したが、長くてカエサルとも紛らわしいため、研究者たちはそう識別した。p167

アウグストゥスが引き受けた属州は、国境沿いや帰順しない勢力による反抗が続いていた地域だった。
一方で、元老院の管轄となったそれ以外の属州の大半は、軍団の常駐を必要としない平和な地域だった。
つまり、この時アウグストゥスは、国事の必要上仕方なく、という見せかけのもと、ローマのほぼ全軍の指揮権を合法的に譲られた。
超法規的な手段で国政をほしいままにすれば、独裁者だと憎まれて大叔父のように暗殺されるかもしれない。p169

前23年、護民官となるアウグストゥス
拒否権の発動が認められて、それにより他の公職者や元老院の決定を無効にできた。それであらゆる公職就任者は、必ず彼の意に沿わなければならなくなる。
この前23年こそ、アウグストゥスによる「帝政」の完成の年と考えている。

 

第10章 属州 帝国西部の地方社会
属州はただ軍隊を受け入れていただけでなく、しばしば新兵を供給し、兵役中の彼らの衣食を賄い、そして除隊後は退役兵を受け入れ、彼らの第二の人生の舞台を提供していた。p187

ローマによるガリア支配を劇的に変化させたのが、軍功による富と名声を渇望するユリウス・カエサルである。彼は、前58年、ローマ領外で生じた部族間の紛争解決を口実にガリア東部に兵を進め、紛争解決後もガリア北部・西部・中部で遠征を継続し、ガリア側に多大な人的損害を強いた末、各地の諸部族を服属させた。p188
(カエサルびいきの塩野七生先生とはずいぶん違う書き方ですね・(笑))

ヒスパニアガリア、ブリタンニアそれぞれとの関係で重要なのは経済的な結びつき
ヒスパニア産のオリーブ油がアンフォラに詰められて
地中海とローヌ川等の河川網を経てライン国境地帯に、
また大西洋を通じても北方地域であるブリタンニアライン川を遡ってライン国境地帯に輸送されていた。p192

 

第11章 ローマの経済 食料の生産・輸送・消費
共和政末期から帝政初期のイタリアを中心に、植物性食料の生産として農業を、ついで動物性食料の生産として畜産業と水産業を概観し、最後に食料の輸送と食生活について

ローマ農業史研究の基本史料は、前二世紀に大カトー、前一世紀にワロー、後一世紀にコルメラが書いた三つの現存する農事誌であり、土地の選定からウィラ(農業に関連する別荘)の設計、労働力の調達、作物の栽培と加工に至るまで詳細な情報がここから得られる。
他には大プリニウス『博物誌』などp212-213

 

第12章 ローマの社会 語学のテキストで悪口と借金を学ぶ社会
偽ドシテウスのヘルメネウマタ
ローマ帝政期からルネサンス頃までのヨーロッパで使用されていたギリシア語・ラテン語学習用の教材集


なぜ古代ローマでは、人をののしる表現が役に立つと見なされていたのか?
・ローマ社会では、日常のトラブルをうまい解決してくれる警察のような組織がなかったからではないか。p234
・ローマ法(それとラテン語)を学ぶ若者を主な読者層にしていた。裁判ではいかに相手を攻撃できるかが大切だった。

ローマ社会で、ののしられていた無数の社会的弱者の存在が、隣人愛を説くキリスト教誕生の腐植土となってくれたのかもしれない。p247

 

第13章 ローマ帝国の衰亡と「古代末期」の気候変動 気まぐれな自然が蝕んだ帝国の回復力
古典古代世界から中世西欧世界・ビザンツ世界への移行期を、単なるローマ帝国衰亡の時代ではなく、それ自体独自で固有の意義を持つ時代と見なし、「古代末期」と呼んでいる。p252

ドイツの古代史研究者デーマントによれば、これまでに提示されてきたローマ帝国衰亡原因論を分類整理すると、迷信や専制主義、農奴制、農業問題、入浴習慣、破産、蛮族化、キリスト教など、210を数えることができるという。
それぞれの時代を生きた人々が、自らの時代のはらむ諸問題を映し出す鏡/鑑として、さらには将来への「処方箋」として、ローマ帝国の衰亡へ様々な角度から眼差しを注いでいたことが、衰亡原因論がこのように多岐に及ぶという事実に端的に示されている。p255

アントニヌスの疫病 165~180年
キュプリアヌスの疫病 249~270年
カルタゴ司教キュプリアヌスによるまとまった証言が残されている。
古代末期小氷期の到来とユスティニアヌスの疫病 541~749年

 

第14章 ギリシア・ローマ世界のサヴァイヴァル なぜその叡智は我々に伝わったのか
ローマは広大な領域を征服して帝国を形成する過程で、ギリシア文化を筆頭に、支配下においた文化を摂取しながら、彼らが考えるところの「文明」なるものを共和政末期から元首政期に確立した。これがラテン語でフマニタスと呼ばれるもので、「教義」とか「文明」などと訳される語にあたり、帝国内の各地のエリートがローマ人として認知されるために習得が必須なものとして、広がっていった。p276

中世のローマ帝国ビザンツ帝国と呼ばれることが多い。
通説的な理解だと、そこで古代ギリシアの叡智も保存され、ルネサンスに多大な影響を与えたということになる。p282

イスラーム世界になぜ多くのギリシアの著作が存在したのかを考える際に重要となるのが、ローマ帝国下でのキリスト教における正統の決定、そしてサーサーン朝ペルシアである。p284-285

試練の時代を乗り越えて生き残ったフマニタスの一部は、14世紀に入ると、後代にルネサンスと呼ばれる文化思潮により、永遠の命が保障されることになった。
この時代は教皇庁がローマから北のアヴィニョンに移され、ここに西欧南北の知識人が交流できたことも大きな原動力となったかが、とりわけペトラルカの出現により、フマニタスの再生が大きく進められる。p287