柳田国男の青春(第7章~第11章)

第7章 農政学者
農政学を専攻した国男が農商務省に入るのは自然の道筋だが、世間的にみて、これは官僚としてのエリートコースではなかった。しかも国男たちは、帝国大学を出ればすぐに、文学部なら中等学校長に、法学部なら高等官になれた時代に、すすんで属官として入ったのである。
 
「最新産業組合通解」は「抒情詩」を別にすれば、国男の最初の著作である。
極めて明快な、機能がそのまま骨組みと化しているような美しい文章。
カエサルの「ガリア戦記」みたいなものか?)
 
明治35年、国男は農商務省を去って法制局に移り、参事官になり、はじめて高等官になった。
 
この時期の旅行は、少なくとも表向きは、官費による視察、ないし講演のための旅行だった。
彼の旅は、さまざまな意味で制限の多い旅だったが、彼は稀有の旅人だった。彼は、人の気づかなかった村の様々な生活の相や、見過ごされてきた土地の様々な陰翳や、思いがけない習俗や、顧みられなかった風景の美に対して、私たちの目を開かせてくれた。
 
第8章 竜土会
竜土会というものは、作家たちが暗黙のうちに抱いていた希望や念願が、国男という触媒の存在によって顕在化したものではないか?p162
 
花袋の「蒲団」などの閉ざされた方向とは違い、国男が欲したのは、もっと具体的な広さだった。日本の隅々に足を踏み入れなければやまなかった彼の旅も、和漢洋にわたるその膨大な読書も、広い交友も、さまざまなジャンルにわたる仕事も、その表れだった。さらには見えざる世界にまでその精神を広げようとした。
 
国男は終生、泉鏡花アナトール・フランスを愛読し続けた。
キリスト教化されたヨーロッパ文明の奥に、ローマの、ギリシャの、東方の生活を垣間見ようとする、過去へ訴求するアナトール・フランスの、広い教養に支えられたいきいきとした想像力は、過去に対する無知の上に時代を築こうとする人々を眼前にした国男に深い共感を与えずにはいられなかったのだ。
国男の愛読したフランスの「白き石の上にて」
 
第9章 イブセン会
イプセンはフランスと違い、国男の後年の精神の軌跡に、なにひとつ関りを持たない。
彼にイプセンを選ばせたのは、彼の好みというより時代の好みだったといってよい。
 
明治41年に「後狩詞記」につながる国男の旅行。この旅がイブセン会の会員の熱意を覚まし、国男の関心を失わせ、会を中絶させたのではないか。
 
第10章 民俗学
国男が民俗学という新しい学問を形成していく過程は、芸術家が独創的な作品を創造する過程に似ている。
彼の中には、ある漠然とした、名づけようのない、しかしやみ難い欲求がある。彼はそれに形を与えたいと思うが、何一つ手掛かりがない。それは、既成のすべてのものに少しも似ていないからだ。もちろんいくつかのものは彼の関心を引き、時には深く捉えられるが、あるところまでついていくと、彼は決まって首を振り、引き返してしまう。彼の欲求に見合うものが周囲に全く存在しないため、時おり彼は自身、それが一種の夢想であり、はかない幻だと思い込もうとする。だが忘れるには、その欲求はあまりにも激しい。その欲求に背中を押されるようにして、彼はついに、ためらいながら闇へ向かって一歩を踏み出す。はじめは不器用な、つまづきがちな歩みだ。しかしやがて、心の中の衝迫につき動かされるまま、無我夢中で動き始める。彼には自分で自分のしていることがよくわからない。気づいた時には、いつの間にか自分の欲求に形を与えてしまっている。人々はそれを見て驚き、心を動かされるが、同時にとまどいも覚える。それは、これまでに存在しなかったものであり、名づけようにも、分類しようとも、位置づけようもないからである。p213
 
明治41年というのは、国男の一生において、ひとつの区切りがつくと同時に、新たなものがはじまった重要な年である。
区切りは国木田独歩の死である。単に一人の友人の死というだけではなく、独歩や花袋とともに生きた自分の青春の終わりを告げ知らせる象徴的な出来事だった。
新たなものは「後狩詞記」につながる椎葉村の体験。そして遠野物語の資料提供者となる佐々木喜善との出会いである。
 
第11章 南方熊楠新渡戸稲造
柳田民俗学という一本の若木において、熊楠の影響が太陽や慈雨であると同時に、拮抗しなければ吹き倒されかねない嵐のごときだったものだった。
新渡戸稲造は、国男の学問に方向付けを与え、その歩む道をうべない、はげまし、助けるような、土壌のようなものだった。p255