マクロン大統領を生んだ街 アミアンへ(フランス)

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ペレの塔(Tour Perret )
古の写真でめぐるフランスシリーズ、今回からはアミアンとなります。
アミアンにちなむ(少なくとも日本では)有名人と言えば「海底二万里」「十五少年漂流記」などの作品で知られる作家のジュール・ヴェルヌでしたが、現在ではなんと言ってもエマニュエル・マクロンフランス大統領でしょう。
氏が生まれ、育ち、学び、そして現夫人との愛を育んだ街です。
氏がアミアンを離れたのは、年齢差のある夫人との関係を危惧した親御さんにより、パリの高校に移された時でした。
といっても、パリからアミアンまでは電車で一時間ちょっとなので、頻繁にランデブーを重ねられたものと思います。
 
自分がアミアンを訪問したのは、2001年の5月でした。
パリ北駅から電車に乗り込みます。
ちょうど誰もいない客車の一室があったので、ほっとして座り込んだのですが、しばらくして「ボンジュール」の野太い声と共に、自分よりもデカイ黒人の兄ちゃんが入ってきました。
そしてそのまま座席に横になって寝てしまいました。
目の前には汚れたスニーカー。その状態で狭い客車、男二人だけで北に進んでいきます。
その兄ちゃんは、途中の駅で降りていきましたが…。
 
アミアンの駅に着きます。
まず目に入ったのは、画像のような古びた塔です。
このビルはル・アーヴルの再興やシャンゼリゼ劇場の設計を行った建築家オーギュスト・ペレによるもので、その名の通り「ペレの塔」と呼ばれます。
高さ103メートルで、第二次世界大戦後、復興のシンボルとして50年代に建てられたものだそうです。
ソ連的なテイストを感じる建物です。
 
この塔に見つめられながら、大聖堂へと向かっていきます。
 
(パリからの小さな旅 稲葉宏爾 著 TBSブリタニカ を参考にしました)
 

フランスと世界

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フランスと世界

渡邊啓貴 上原良子 編著

2019年11月15日 初版第1刷発行

法律文化社 発行

 

この本は、フランス外交やフランスと世界をめぐる事情に関心を持つ大学生を対象にして編纂された教科書、とのことです。

 

総論 フランス外交の歴史

1 第三共和制(1870~1940年)の外交

2 第二次世界大戦後の国際環境とフランス:対米協調・植民地帝国維持・欧州統合とドイツ

3 フランスの「偉大さ」を求めたドゴール外交(1958~69年):演出された自立

4 ポンピドゥー時代(1969~74年):緊張緩和時代のフランスの外交政策の転換と連続性

5 ジスカール・デスタン時代の外交(1974~81年):継続性の中の変化

6 ミッテラン時代の外交(1981~88年、1988~95年)

7 シラク時代(1995~2002年、2002~2007年)の外交

8 フランスの存在感を高めたサルコジ外交:過去との決別

9 オランド外交:大西洋均衡・ユーロペシミズム・アフリカ介入

10 中道派「ドゴール主義」のマクロン外交

 

第Ⅰ部 地域編

1 フランスとドイツ

  普仏戦争から第二次世界大戦まで、フランスとドイツは「先祖代々の宿敵」

  しかし冷戦により、脅威がドイツからソ連になった。またドイツは分断国となったため、この敵対的関係は180度かわった。

2 フランスとヨーロッパ

3 フランスとアフリカ

  フランス人にとってアフリカとは、アフリカ大陸全体を指すのではなく、かつての植民地であったフランス語圏アフリカ諸国のこと。

  ただ、マグレブ諸国(チュニジアアルジェリア・モロッコ)とは一緒くたにすることはできにくい。

4 フランスとマグレブ

5 フランスと中東

6 フランスとインドシナ

7 フランスと南太平洋島嶼

 

第Ⅱ部 トピック編

1 フランスの政治

2 フランスの軍事・国防

  「同盟すれども同調せず」という風に米欧同盟の中でもアメリカとは一線を画する立場をしばしばとってきた。

3 フランス経済の特質と変貌

  フランスは最近まで「経済に弱い」という風評があった。その理由として

  ・歴史的に形成されたカトリックの支配。利潤追求は神の意志に背くというカトリックの教え

  ・「人口増加は失業と悲惨をもたらす」というマルサス主義の悪影響

  ・フランス資本主義の後発性。フランス革命による経済的打撃

  だが第二次大戦後、国有化と計画化による「ディリジスム」(国家主導主義)の改革を成功させた。

4 フランスの経済・金融

  フランスは典型的な「開放小国経済」(資本の流出入が自由に行えるが、自国だけの都合では為替を操作することができない国の経済の姿を示す用語

  2018年の銀行ランキング。総資産額のベスト20のうち、フランスは4行を占める。かつては全く異なる業態に属していた。

  BNPパリバ(「事業銀行」と呼ばれる投資銀行

  クレディアグリコル(農業信用金庫)

  ソシエテ・ジェネラル(預金銀行)

  BPCE(庶民金融機関と貯蓄金庫)

  それが今日ではいずれも大々的に海外業務を営む総合銀行・兼営銀行に展開している。

5 フランス文化外交の変遷

6 フランスの農産物

  1970年代末から2000年代初頭まで、ほぼ一貫してアメリカに次ぐ世界第二位の農産物輸出国の位置を維持していた。

  しかし2010年から2014年まではアメリカ・オランダ・ドイツ・ブラジルに次ぐ第5位、2015年以降は中国に次ぐ第6位となっている。

7 フランスと原子力

8 科学技術とフランスのグローバル戦略

9 フランスの脱植民地化

  脱植民地化の諸類型

  ・植民地戦争の結果としての脱植民地化(インドシナアルジェリア

  ・政治的交渉を通じた脱植民地化(チュニジア・モロッコ

  ・整然とした脱植民地化(サハラ以南の仏領アフリカ)

  ・新しいフランスとのパートナーシップ(その他の海外領土)

10 フランスの自治体外交

  フランスにおいて自治体国際協力に法的根拠を与えたのは1982年3月2日の地方分権

  アフリカ・インド洋地域の自治体国際協力プロジェクト件数の上位10か国は、かつてフランス植民地帝国の支配下にあった国々で占められている。

11 フランスの移民

世界地図が語る12の歴史物語(第9章~第12章)

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カッシニ図からフランス全土

第9章 国民

カッシニ一族、フランスの地図 1793年

 

カッシニ図は、三角測量と測地学に基づいて国全体を測量して地図に描く最初の試みだった。

その後200年にわたり、あらゆる近代国家の地図製作のひな形を提供するものだった。

1793年の革命時の布告により、この私的な地図製作プロジェクトが国のものになることを意味した。

 

カッシニの地図には同一の標準的な表現法と記号が使われた。

そして、都市や街や集落などの表記にはパリ市民のフランス語だけが使われた。

つまり、地理学の標準化は言語も統一したのである。

18世紀のフランスでは、国王の臣下はオック語バスク語ブルトン語などから様々な方言に至るまで多様な言語を使っていた。p391

 

カッシニ図は地図製作史上に例のない大きな進歩だった。

測地学的および地理学的な測定に基づいて、一つの国をすべて地図に表すのに「何をすべきで何をしてはならないかを世界中に示した」最初の例であった。

 

第10章 地政学

ハルフォード・マッキンダー「歴史の地理学的な回転軸」 1904年

 

カッシニ図の後、1820年から30年代にかけては、地理学と地図製作における歴史的転換期であった。

軍事的、法的な統治に有効で、国民同一性の精神を育んだ。また経済界においても、不動産計画図、税地図、囲い込み計画図、運河や鉄道などの輸送機関地図、街や教区の計画図などが盛んに作られた。

 

また地図の体裁においても、銅板彫刻から石版印刷が1796年に発見された。

これにより地図の質と量が飛躍的に進歩した。p407-408

 

英国人研究者ハルフォード・マッキンダー

独力で英国の地理学研究を変えただけでなく、全く新たな手法である地政学を作り上げた。

 

マッキンダーの「歴史の地理学的な回転軸」で使われた「自然地理学的な勢力配置」を示す世界地図

これはのちに「地政学における最も有名な地図」と呼ばれるようになる。

第1の領域は回転軸領域。ロシアと中央アジアの大部分

この領域の外側には二つ三つの三日月地帯が同心円状に広がる。

第1の「内側ないし辺縁の三日月地帯は大陸と海洋にまたがり、ヨーロッパ、北アフリカ、中東およびインドの一部からなる。

「外側ないし島状の三日月地帯」は主として海洋に位置し、日本、オーストラリア、カナダ、北アフリカ南アメリカ、英国を含む。

 

第11章 平等 

ペータース図法 1973年

 

アポロ17号による地球の写真の公表から半年も経たないうちに、政治的に偏りのある20世紀の地図製作作法に背を向け、すべての国々を平等を約束する世界像を示すと主張する世界地図がドイツで公表された。

1973年5月、ドイツの歴史家アルノ・ペーターズによる発表である。

 

ペータース図法自体は、一世紀以上前、スコットランド福音派牧師ジェームズ・ゴールによって発明されたものだった。p472

 

第12章 情報 

Google Earth 2012年

 

グーグルは金を儲けるためグーグルアースを立ち上げたのではない、というのでは全くの筋違いである。グーグルは収益を上げている実在の企業である。p516

 

1891年、ドイツの地形学者アルブレイト・ペンクに提唱された、国際図(IMW)と呼ばれる統一的な世界地図の製作プロジェクト

国連は1960年代にIMWを復活させようとしたが、ほとんど効果はなかった。

現代でも仮想オンライン世界地図を統一する夢は不可能だと認めている。

理由は単純。

国際図が脱却しようとした国家や地域及び言語の多様性を、彼らは維持することを望んでいるからである。

世界地図が語る12の歴史物語(第5章~第8章)

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1569年にメルカトルが作成した地図


第5章 発見

マルティン・ヴァルトゼーミュラーの世界全図 1507年

 

アメリカのという名称が初めて使用されたこの世界全図

アメリカの出生証明書

 

16世紀になって一般的になった浮き彫り木版印刷技法で行われる。

ストラスブールの印刷工が直面した様々な問題

巨大な地図の図案を木版に転写する方法において、元の地図は切り刻まれてしまい、現物は残らなくなってしまう。

 

印刷によって、多くの地図に対する考え方をすっかり変えてしまった。

・地図や書籍の正確な再現性、標準化、保存の可能性を高める

著作権侵害、偽造、誤植といった懸念

・印刷工、植字工、組版工、編集者などの経済的な利害関係を生み出す。p222

 

第6章 グローバリズム

ディオゴ・リベイロの世界地図 1529年

 

1494年6月7日に調印されたトルデシリャス条約

北極から南極まで、大洋上に境界となる直線を画定する。

その西側をカスティーリヤの支配下に入り、東側はポルトガルのものとなる条約

 

マゼランが参考にしたヨーロッパ最古の地球儀。1492年、マルティン・ベハイムによって作られる。

その地球儀が見積もったポルトガルから中国沿岸までの距離は、実際の半分ほどしかなかった。

この判断ミスが、マゼランと同行の乗組員に悲運をもたらす。

 

マゼラン探検隊の生存者が帰還。西を目指して進むことで、東から帰還した。

モルッカ諸島をめぐるカスティーリヤとポルトガルの争い

1529年のサラゴサ条約の締結で、新たな線引きがされる。

その条約が最終的に批准するときに完成されたリベイロの世界地図

 

 

 

第7章 寛容

ゲラルドゥス・メルカトルの世界地図 1569年

 

地図製作の歴史でよくしられているメルカトル

メルカトルは宇宙誌学者、地理学者、哲学者、数学者、科学機器製作者、彫版師であり、

有名な地図投影法を発明し、アトラスと名付けた世界初の地図帳も考案している。

木版による地図製作に代わって、銅版による地図彫版技術を採用p266

 

宇宙誌学と地理学における創造の起源の探究

16世紀中頃には、このような問題に取り組むものは、対立する二つの宗派(カトリック派とルター派)のいずれにおいても聖職者の逆鱗に触れる恐れがあった。p268

 

メルカトルが影響を受けた三人

修道士から地理学と宇宙誌学との境界領域の学問的研究と信仰生活が両立することを学び

数学者からは正確な宇宙誌学を追求するために数学と幾何学の習得が欠かせないことを学び

金細工職人からは最新の設計による地図製作、地球儀の構築、器具類をかたちにするのに必要な技術を学ぶ。p272-273

 

メルカトルの「クロノロジア」

1569年出版

バビロニアヘブライギリシャ、ローマの膨大な資料を用いて、聖書に沿って理路整然とした歴史を提示することを試みた。

 

第8章 マネー

ヨアン・ブラウの「大地図帳」 1662年

 

アムステルダム市庁舎の床に埋め込まれた三点の半球図

それは1648年に作成された、ブラウ世界地図に基づいて制作された。

その世界地図は、オランダ共和国の独立を祝い、世界を目指す東インド会社の野心的な試みをたたえるために制作された。

 

1662年出版の「大地図帳またはブラウの宇宙誌学」

初版はラテン語で書かれた3368ページを含む11巻に及び、21点の口絵、594点もの膨大な地図を加えると、総ページ数は4608ページにもなった。

世界地図が語る 12の歴史物語(序章~第4章)

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世界地図が語る 12の歴史物語

A History of the World in Twelve Maps

ジェリー・ブロトン 著

西澤正明 訳

バジリコ(株) 発行

2015年10月1日 初版第1刷発行

 

この本では、世界史における文化と時代の中から12点の世界地図を取り上げ、認識や抽象化から縮尺、遠近法、方位および投影に至るまで、地図製作者が直面した問題の解決を試みた創造の過程を精査しています。

 

序章

シッパル(現イラク南部、テル・アブ・ハッバ遺跡) 紀元前6世紀

1881年に発見された楔形文字が刻まれた2500年前の粘土板小片

現在、この粘土板は「古代バビロニアの世界地図」として人類史上初の世界地図として知られている。

 

第1章 科学

プトレマイオスの「地理学」 紀元150年頃

 

紀元150年頃、天文学者クラウディオス・プトレマイオスは、のちに「地理学」として知られるようになる「地理学への手引」と題する著作を執筆した。

 

プトレマイオス以前の人々は、万物の創造を説明する宇宙の起源を理解するために地理学を利用した。

プトレマイオスは「地理学」の中でこのような探求に背を向けた。

彼の著作に神話が登場することはなく、政治的な境界線や民族誌学についてもほとんど記されていない。

その代わりに、アレクサンドリアにおける学問の普遍的な二つの原理であるユークリッド幾何学カリマコス書誌学的分類方法に、地理学の原点を見出した。p63

 

第2章 交流

アル=イドリーシー 1154年

 

1154年、シチリア王のルッジェーロ2世は58歳の生涯を終える。

それとともに、シチリア島における、一つの法の下でのキリスト教徒、イスラム教徒、およびユダヤ教徒の平和的共存の時代は終わりを告げた。

誰よりもその死を悼んだのは親しい友人の一人であった、アル=シャリーフ・アル=イドリーシー。

彼はその死の数週間前、ルッジェーロの命を受けて以来十数年にわたり執筆を続けてきた地理概説書をついに完成させたところだった。

この書は既知の世界の概要を包括的に記し、70点に及ぶ世界の地域図と小版であるが美しく彩飾された一点の世界地図によって図解したものだった。

これはアラビア語による著作で、「世界各地を深く知ることを望む者の慰めの書」と呼ばれた。

 

この地図で最も驚くのは、南を上にして描かれている点である。

7、8世紀に急速に拡大したイスラム教に改宗した共同体の多くはメッカの真北に位置していたため、南を礼拝の方向とした。

その結果アル=イドリーシーの地図を含め、イスラム教徒の世界地図の多くは南を上にして描かれた。

一方、15世紀まではキリスト教徒の世界地図は、ほとんどすべてが東を上にして描かれていた。

西を上にする地図の伝統は事実上皆無

北を上にするのはビザンツや中国。

中国は南からは皇帝の広大な領土を横切って、陽光と温かな風が運び込まれるため、南は皇帝が臣下を見下ろす方角となった。

服従の位置から皇帝を見上げるときは、誰もが結果的に北を向くことになる。

語源的に、中国語の「背」は「北」と同義であるが、これは皇帝の背中が北に面していたからである。p71-73

(日本でも「北面の武士」といいますね)

 

第3章 信仰

ヘレフォードの世界地図(マッパムンディ) 1300年頃

 

イングランドウェールズの境界に位置する門前町ヘレフォード

そこの大聖堂の別館に保存されているマッパムンディ

地図製作史上最も重要な地図の一つであり、800年近くにわたり原型を保ったまま残っているものとしては最大

13世紀のキリスト教徒の目に映った百科事典的な世界像で、中世キリスト教世界における信仰を、神学、宇宙論、哲学、政治、歴史、民族誌学などの視点からとらえて描写したものといえる。

 

ヘレフォード図は、地球とその起源に関するギリシャ・ローマ的な観念と、新しい一神教としてのキリスト教の信仰および世界を創造し人類に永遠の救済を約束した神性に対する信念との間での、数世紀に及ぶ対立と段階的な適応から生まれたマッパムンディの古典的な一例である。p114

 

ヘレフォードのマッパムンディの最も重要な特徴は、各々の場所が具体的なキリスト教の事象に関連し、互いに隣接している点にある。

地理学的な空間ではなく、特定の場所に関連する宗教史によって形作られた地図である。

天地創造、人間の堕落、キリストの生涯、黙示録を、キリスト教の歴史に沿って上から下まで垂直に展開する図像で示したもので、これによって信者は自らの魂の救済の可能性を理解することが出来た。p133

 

第4章 帝国

混一疆理歴代国都之図 1402年頃

 

疆理図と略称されるこの地図は現存する東アジアの地図としては最古のもので、中国や日本の地図よりも古く、地図製作法に基づいて描かれた最初の朝鮮半島の地図であり、ヨーロッパまで描かれた最古アジア地図である。

 

宋王朝時代の1136年、禹王の伝説的な功績に基づいて作られた「禹跡図」

同時代の地図製作能力がどれほど西洋に先んじていたかを示す地図

80センチメートル角の石碑に刻まれたもので、現在は陝西省の首都西安の公立学校の中庭に立てられている。p160

ストラスブール美術館展におけるストラスブールの絵(姫路市立美術館)

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ロタール・フォン・ゼーバッハによる、La rue de la Douane à Strasbourg, Effet de pluie(邦題は「ストラスブールのドゥアンヌ(税関)通り、雨の効果」(1895年頃)
姫路市立美術館で開催されているストラスブール美術館展の一作品、ロタール・フォン・ゼーバッハによる、La rue de la Douane à Strasbourg, Effet de pluie(邦題は「ストラスブールのドゥアンヌ(税関)通り、雨の効果」(1895年頃)について関連することを更に書いてみます。

 

絵のモチーフ
メインは表題にある通り、雨に濡れた路面を中心に表現しています。
微妙な光の効果が素晴らしいです。
通りには馬車と二人の人物、そして奥の方にもう一人いるようです。
よく見ると馬車には誰も乗っていないような感じです。
二人の人物が、馬車から降りて、話し込んでいるのでしょうか?
それとも、馬車の馭者が、降りて通行人に話しかけているのでしょうか?

 

絵画の場所
通りの名を参考に場所を調べて見ると
 

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ストラスブールのイラストマップ

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「税関通り」付近のイラストマップ
ストラスブールのイル川に囲まれた旧市街の南部に位地する通りです。
川沿いのノコ歯型に装飾されている屋根のある建物が目立ちます。
これはストラスブールの税関などとして使われた建物です。
ゼーハッハの絵画でも、向かって左側に、特徴ある屋根の装飾を認めることができます。

 

建物の歴史
1358年に外国商人用のカウフハウスがつくられました。
カウフハウスとは輸入品の卸売り市場であり、保税倉庫でもあり、税関の機能もあるものでした。
こうした機能をこの地に一括したことにより、商取引を管理し、倉庫料を取り、関税を徴収し、卸売の場とすることができました。
ゼーハッハの絵画が描かれた19世紀には、税関機能は撤退しますが、ワインや葉たばこのマーケット、更には魚市場などとして使われたそうです。
第二次世界大戦において空爆により、ほぼ全壊しますが、戦後歴史的建造物として、昔と同じような形で再建します。
現在、内部は「古の税関」l'Ancienne Douaneという名のレストランとしても使われています。ネットでレストラン関連の画像をみると、シュークルートなど美味しそうなアルザス料理が並んでいました。

 

(物語 ストラスブールの歴史 中公新書を参考にしました)

グッバイ、レニングラード 小林文乃 著

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グッバイ、レニングラード

ソ連崩壊後から25年後の再訪

小林文乃 著

2018年3月10日 第1刷発行

文藝春秋 発行

 

1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦(ドイツによるソビエト連邦奇襲攻撃)により、レニングラードナチスに約900日間完全包囲される。

その間、ショスタコーヴィチ交響曲第7番の作曲に没頭する。

1991年の7月、10歳の著者はモスクワに滞在する。そしてその帰国直後、8月19日、モスクワでクーデタが勃発する。そして12月25日にはソビエト連邦は地上から完全消滅する。

そして2016年11月9日、トランプ大統領誕生の当日、著者はロシアのサンクトペテルブルグレニングラード)に向かい、ショスタコーヴィチ交響曲第7番についてのロケを行う。

これらの時代を行ったり来たりして、ソ連、そしてロシアを述べていきます。

 

1991年当時、プラウダに載った著者についての記事。

プラウダで行ったディスカッションと、自分が書いたレポートが出処にしても、ニュアンスの違いに困惑する著者。

新聞記者は時に、自分の言いたいことを他人の口を借りて言う、というのが十歳にしての教訓となる。p18-19

 

今回の取材で宿泊したサンクトペテルブルグのホテルで見た「時計の映像」

ビキニを着たブロンド美女が、インク壷と筆を持って立っており、おもむろに近づき、画面いっぱいに筆で現在時刻を書く。

この映像が延々と続く。p47-48

 

完全包囲されたレニングラード

冬には凍死者があふれ、食糧危機もピークに達する。

しかし冬の寒さのおかげで、ラドガ湖が凍り、そこに氷上道路を造ることが可能となり、徐々に市内に食糧を運ぶことが可能になる。

その氷上道路は「命の道」と呼ばれる。

 

1942年8月9日

交響曲第7番のレニングラード初演が行われる。

たった一枚の写真が、レニングラード初演の事実を現代まで伝えている。

 

プーチンは自分の祖父のことを、レーニンの別荘に呼ばれ料理人を務めていた、またスターリンの別荘でも働いていたと語っている。

またプーチンの父はレニングラード包囲戦ナチスと死闘を繰り広げた英雄である、とも述べている。

これらは、自分こそがロシアを率いるのに最もふさわしい人物である、というメッセージだろうか。