
〈通訳〉たちの幕末維新
木村直樹 著
2012年(平成24年)2月10日 第一刷発行
吉川弘文館 発行
この本では江戸時代の長崎で活躍していた「オランダ通詞」をいう集団を中心として書かれています。
幕末にかけて困難な状況の中、外国語をなんとか習得し、通訳などの様々な業務に携わった先人たちの苦労が偲ばれます。
「通詞」という集団
彼らは決して「通訳」ではなかった。確かに通訳という仕事もしたが、彼らはある時は翻訳者であり、ある時は商人であり、ある時は学者でもあるという多彩な側面を有していた。p2
江戸時代の日本と異国や異郷との関りを「四つの口」と整理することがある。
長崎でオランダと中国(唐船)
対馬では朝鮮
薩摩では琉球
長崎の通詞が、組織として歴史上名前が登場してくるのは寛永18年(1641)
オランダ通詞は、大きくいって二つの流れの集団からなっていた。
・平戸のオランダ商館で通訳として働いていた人たち
・長崎にいたポルトガル人との通訳 p7
1498年のヴァスコ=ダ=ガマのゴア到着以来、一世紀近くにわたって、欧州勢力によるアジア進出はポルトガルが中心だった。
オランダの船舶がアジアに現れたのが1595年で、一世紀近い違いがあった。
十七世紀初頭まで、アジアにおいて、共通に使われる欧州言語はポルトガル語だった。p9
オランダ通詞は大きく言えば
大通詞・小通詞という枠組みとオランダ内通詞という二つの枠組みがあった。
大・小通詞・・・正式な長崎の地役人の一形態である通詞としてさまざまな公式の局面に立ち会う。
内通詞・・・オランダ人の身の回りの世話をする p13
文化五年(1808) フェートン号事件が発生
長崎ではフランス語・ロシア語・英語・満州語への対応が求められる。
オランダ通詞たちに、もはやオランダ語だけで生きていくことができないということを実感させたかもしれない。p37
シーボルト事件により、通詞組織は深刻な打撃を与えられる。
帯刀とは、厳密には二本の刀をさしていることを言う。
通詞たちも帯刀運動を行っていた。p56
オランダ通詞たちに英語を教える。
彼の回想録「日本回想記」
当時でもLとRの区別に苦労する。p67
嘉永6年(1853)のペリー来航
オランダ通詞たちが日本中を走り回り、その結果として、なし崩し的に長崎から引き離されていく。p81
その外交交渉の場でオランダ通詞のライバルとなる唐通事と日本人漂流民 p89
英語学習に宣教師の役割が大きくなる。p102
通詞の身分
オランダ通詞は長崎現地採用の地役人であり、基本は町人身分。江戸へは出向という形だった。
しかし恒常的に業務が派生することになると、幕臣となる方が、都合がよくなる。p131