柳田國男全集5 後狩詞記 山島民譚集 等

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柳田國男全集 5
ちくま文庫
1989年12月25日 第2刷発行

この巻では、後狩詞記、山島民譚集などを収録しています。

後狩詞記(のちのかりことばのき)
日向国奈須の山村において行われる猪狩の故実
「土地の名目」「狩りの作法」「いろいろの口伝」の章に分けて書かれています。
最近、職場の近くでも猪が出た、という話があり、ここで読んだ猪の習性や、猪狩りの話がより身近に感じられたものでした。

山島民譚集
三部作となっています。このうち第1部は漢字カナの文語体で読みにくいです。それでも最初は河童から始まっており、現在福崎町で河童のオブジェなどが人気を博しているルーツになるのかもしれません。

書いたものが変に理屈っぽく、また隅々の小さな点に、注意を怠らなかったということばかり気にしているのは多分に吏臭とでも名づくべきものだろうか。「刀筆の吏」であった柳田さんも厭で厭でたまらなかった。p58-59

少年ノ頃姫路ノ城ノ堀ニハ藪熊ト云ウ怪物住ミテ人ヲ騙カスト聞シシガ、此モ熊トハ思ワレヌ生活状態ナリキ。p115

いろいろの物の足跡
神馬や牛、犬の足跡石がある。
欧羅巴ではヴーイエの戦にクロヴィスの軍を導いた牝犬足跡がヴィアン河畔に存する。p247

神足石や仏足石
神や仏の足跡
基督昇天の折の足跡はエルサレムのオリヴェット山上に存し、以前二足備わっていたのを左足は回教徒が持ち去って、今日エル・アクスの回寺にあるものがそれだという。
欧羅巴においても羅馬のサン・デニス及びサン・ローラン並びに仏国の神足寺Pas de dieuに基督の足跡があるというが、これなどはもしや仏足石の類ではないか。
さらに基督の教えに殉じた歴代の尊者の跡に至っては広く欧州の諸国に散布している。出所は一々「神跡考」の原文に明記してあるが、たとえば波蘭(ポーランド)のグリスタン河上にはヒヤシンス尊者の足跡、パロス島にはテオクリタ尊者の足跡あり、羅馬にはウルシニウス尊者の刑を受けた時の膝の跡を留めている。p253-254

百合若大臣の小説は近代の船載品でユリシス島巡りの希臘(ギリシャ)物語を翻訳したものだという説は二十年前に坪内博士が唱えられて一般に承認せられている。(ユリシーズのことか?)p272

黙市
九州のある地方で往来の側に餅や草鞋を出しておいて、旅人に自由に代を払って持ち行かせる風習
大菩薩峠にもあり。負搬の労力の節約。また孤立した深山の村では、むやみに外部の人と接触してはならない、いわば海港検疫のように、恐ろしい疫病の舞い込むのを防ぐ。
これは日本のみならず世界の到る処の山地にある。サイレント・トレエドと呼ばれる風習。p420-421

隠れ里を求められた人々が、必ずしもその最後に関する記録の不精確なる人のみに限らず、むしろその不自然にしてかつ悲惨なる生涯を後世の者から同情せねばならぬような史上の人物であることは注目に値する。これはおそらくは奈良朝の昔から今日に至るまで盛んに行われているところの御霊の信仰と因縁を有するものであろう。
源義経平維盛豊臣秀頼、近くは西郷隆盛のごときも、元来死ぬべきはずでなかったゆえに、ない不思議まで附け添えて不思議にした。先年今の露国の皇帝が皇太子で東遊せられた時も、その随員の中に隆盛がいるという噂が新聞にまでも記載せられた。p445

ハイネが「諸神流竄記」において歎息したごとく、昔はオリンプスの峯頭において光輝いた男女の神々も、一朝に基督教の迫害を受けて、寒い北海の辺に漂冷し、あるいは森の中の一つ屋にあるいは暗い岩屋の奥に、かいなでの悪魔と伍をなし、裸体なものだからたき火にばかり当たっている。p445-446

「絵馬と馬」より
しかるに日本の上古文化の研究者が、いたずらに欧州岩窟の石器時代人の壁画ばかり、珍しがっているのは気がしれない。あれだってやはり一種のエマに過ぎぬではないか。p519

谷と書いてヤといい、ヤツといいまたはヤトといいますのは明らかにアイヌ語のヤチ(湿地)で、関東諸国にむやみに多くある地名。
これはアイヌの祖先が居住している所へ後から入って来て、アイヌの経済生活にはあまり大関係ない谷合の卑湿の地を占有して田を開きその付近に住居を構えたことを想像させる。
ちょっと人は蝦夷を追いこくってその空地へ日本人を入れたように想像しているが、彼等と雑居することやや久しくなければ決してこれらの名詞を受け伝えるはずがない。p541

解説 より
明治41年(1908年)、法制局参事官だった柳田は視察・講演を目的とした旅行で、その途中、宮城県東臼杵郡椎葉村へ足を踏み入れる。
柳田にとっては、非稲作の山地焼畑農業や、那須大八郎と鶴富姫の話にも触れて興味を持ったのではないか。
この九州旅行で、文献以外に、民間に驚くべき濃密な伝統文化が力強く伝承されていることの意義を深く理解した。
後狩詞記は現行民俗、口頭伝承の記録という民俗学の基本において意義深い。そしてその手法として、「民俗語彙」を集積する形で一定分野の民俗の総体を描き出すという方法が注目される。
また、柳田の内部において「後狩詞記」を基点として、「山」の問題が温められるようになったのことも注目される。

山島民譚集の特色の一つは、柳田が民譚と称した伝説事例のほとんどすべてが地方史誌類・随筆・日記・紀行・記録・書翰等の文献資料によっていることである。
この厖大な伝説資料の整理は内閣文庫閲覧によって可能になった。
「山島民譚集」における資料配列と文章展開は、大主題の中で、小主題にかかわる事例を連想連鎖的につなぎながら示し、時に小主題にかかわる結論を示しつつ全体として大主題の資料を集成するという形をとる。
「山島民譚集」は山道の石塚である。多くの旅人が、おのおのの角度から様々な色や形の石を石塚に積み添えることになろう。