柳田國男の恋 岡谷公二 著

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柳田國男の恋 岡谷公二 著 表紙

 

柳田國男の恋
岡谷公二 著 
平凡社 発行
2012年6月25日 初版第1刷発行

松岡國男の恋
田山花袋はその初期において、明らかに國男をモデルとする、美貌の大学生の恋をテーマにした沢山の恋愛小説を書いた。

花袋は、或る一時期、松岡國男という存在に呪縛されていた。
この呪縛が解けたとき、つまりもはや美貌の大学生を主人公にして、他人の恋愛を及び腰でなぞるのではなく、「前歯のひどく突き出た醜男」の自分自身を主人公に据えたとき、花袋の自然主義がはじまった。p21

國男は恋と詩の夢から覚めた。
その夢は現実より一層リアルな夢、さめた後もしばらくは、現実そのものが幻と見えかねない濃密な夢だった。

柳田國男は松岡國男を否定した。
しかし松岡は、完全に扼殺されなかった。
彼は柳田の心の深層に生きつつ、時折その深みから立ちあらわれる。p72

中川恭次郎という存在
中川恭次郎は明治元年生まれ
國男の故郷辻川に近い、播州神崎郡甘地村の生まれ

國男と恭次郎を結んでいたひそかな絆、その具体的な証拠は、國男が生涯にわたって恭次郎に送金を続けていた事実p95

花袋も藤村も独歩も、やがては若き日の新体詩から離れ、小説の方へ向かっていった。それはごく自然な関心の推移の結果であり、そこには、國男の場合に見られるような否定的契機や決心、といったものは見られない。國男の転換は、ランボーのそれに比すべきドラスティックなものであった。p100

柳田國男の学問は、おのれの欲するままの道を歩いた南方熊楠折口信夫の学問とは性質を異にする。p102

殺された詩人
昭和3、4年ごろの柳田の危機。神経衰弱?

科学、それは、民俗学を趣味や道楽や好事家の学問から足を洗わせるため、柳田國男がどうしても掲げなければならない旗印であった。
昭和初期の学会において、科学とは実証主義だった。
柳田自身も足掛け三年のヨーロッパ生活で、本場の実証主義の学風を身をもって体験していた。p133

帰納にこだわらず、次々と刺激的な仮説を出す柳田國男の方が、その本来の姿だった。p138

昭和初期の彼の精神の不調は、少なくとも単なる過労や、家庭内の心労からだけできているのではない。
自分の欲求を抑え、或いはそれに逆らって働いた。
だから彼の神経衰弱は、あまりに「公」に執しすぎた彼の、忘れられた「私」によるしっぺ返しであり、科学を目指す民俗学者柳田國男によって殺された詩人松岡國男の復讐だったともいえる。p151

海上の道』へ
この章では柳田國男が26歳の時に書いた紀行文「遊海島記」を柳田学の出発点として位置づけ、「遊海島記」から『海南小記』を経て『海上の道』に至る柳田学の南と海の側面を明らかにする一方で、遺著『海上の道』で、新体詩人松岡國男がもう一度よみがえることを確認している。p157

その4年前の明治31年夏の伊良湖岬滞在
伊良湖岬での海の発見
國男の少年時代、辻川は瀬戸内沿岸の「的形あたりを朝立ちすれば、10時頃までには鮮魚の届く所」p162
伊良湖岬滞在こそ、海について知り、海の持つ様々な面に彼の眼を開かせ、海についての彼のイメージの根本を形作った体験だった。p164
(瀬戸内海と太平洋では、同じ海でも違うと思います)

また椰子の実の漂着でもあるように、南の発見でもあった。
抒情と観察とが渾然とひとつに溶け合っているところに「遊南島記」の独特の趣がある。
この紀行文は、いわば松岡國男と柳田國男分水嶺だ。p177

「海南小記」は可憐な花の咲ききそう、のどかな草原と見える地雷原にたとえることができる。
多くの人は何も気づかずに花の香りによって通り過ぎるが、敷設された地雷のひとつひとつは、驚くべき起爆力を秘めている。p192