辺境を歩いた人々 宮本常一 著

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辺境を歩いた人々
宮本常一 著
2018年6月20日 初版発行
河出文庫

この本では、近藤富蔵、松浦武四郎菅江真澄、笹森儀助という、日本の辺境を歩き回った人々を取り上げています。
自分は近藤富蔵や菅江真澄については柳田国男の本で知り、笹森儀助は石光真清の本にチラリと出てきたのを読んでいました。
この本を通して、彼らの一生と踏査記を、少年少女向けともいえるわかりやすい文章で、追体験出来るのはありがたいことです。

近藤富蔵
近隣者との諍いがもとで人を殺し、八丈島に流されるが、島の歴史・文化・生産などを調べ上げ「八丈実記」にまとめる。

富蔵の父は近藤重蔵。重蔵は最上徳内らと共にえぞ地を探検する。しかしその一方派手な生活を好み、それが富蔵の殺人事件の遠因となる。

「八丈実記」は33巻。今も東京都政資料館に残っている。しかしもともと72巻あった。残りの39巻は残っていない。

松浦武四郎
未開の大陸北海道をくまなく歩いて、内陸の地形を詳しく記した「えぞ図」を見事に完成させる。伊能忠敬間宮林蔵がおもに沿岸地帯の測量だったのに対し、松浦は山や川など内陸の地形を詳しくしらべた。
さらにはカラフト(樺太)やクナシリ(国後)、エトロフ(択捉)を探検する。
また北海道の名づけ親でもある。

菅江真澄
みちのくの風土を愛し、不便な土地に住む人々の生活をつぶさに見たいと思い、一人旅を続ける。

真澄は夏でも冬でも黒い頭巾をかぶっていた。そのため彼は「じょうかぶりの真澄」と呼ばれていた。
なぜ頭巾にこだわったのか?傷などはなかったと思われる。身よりのない他国で生きていくためには、人の関心をひきつけておく必要がある。
そのため真澄は生活の手だての一つとして、頭巾をいつもかぶり、そして「じょうかぶりの真澄」と呼ばれ出すと、もうぬぐにぬげずということになったから、ではないか。p113
(パリでおかっぱ頭とロイド眼鏡をトレードマークにした藤田嗣治を思い出した)

もとの名は白井秀雄、幼い時の名は英二

真澄の本草医学の知識は相当なものだった。
医学を知っているということは、頼る人もいない他国で生活をたてるには有力な武器だった。p115
医者はそのころ、頭を剃って坊主頭にしていた。真澄も自分が医者であることをしめすために頭を剃り、頭が寒いので頭巾をかぶるようになったと思われる。
近藤富蔵がふすまの張り替えをしたり、松浦武四郎がてん刻をしながら旅をしたのと同じように真澄は医者をしたので、金も持たずに旅が出来た。p172

笹森儀助
北は千島、南は琉球・台湾までつぶさに歩いて民情を明らかにし、多くの記録を残した。
のち奄美大島島司として、島の開発に尽くす。

南の島々探検の準備の時、笹森儀助は田代安定に会っていたのが注目される。
それまで安定は三回にわたって沖縄や宮古島八重山諸島を調べていた。
安定は沖縄探検において安堂というらんぼう者を通訳兼案内人とする。
ある村で八十歳以上のお年寄りを集めて話を聞く。昔に山が崩れたとか、川が氾濫したとか聞くためだった。
それを知らないと、同じところに家を建てたりして、また被害が起こる。
安定が本当に沖縄のことを考えていたことがよくわかるエピソード
(最近の大雨被害などの天災においても考えさせられる)

伊能嘉矩も同じ頃台湾の調査探検をしており、安定とともに「台湾人類学会」をつくる
嘉矩の「台湾文化志」は今でも台湾を知る上で最も大切な資料

朝鮮からシベリアでの旅行中、ウラジオストクからニコリスクに向かう汽車の中で石光真清に出会う儀助
「曠野の花」の短い一場面からも、儀助の人柄がよくわかる。