エラスムス=トマス・モア 往復書簡

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エラスムス=トマス・モア 往復書簡
沓掛良彦・高田康成 訳
2015年6月16日 第1刷発行
岩波文庫 青612-3

1499年から1533年までの、エラスムスとトマス・モアの間に交わされた現存する書簡五十通の日本語訳です。

一司祭の私生児としてロッテルダムで生まれたエラスムス
ロンドンの名家に生まれたトマス・モア
ルネサンスという人文主義運動が2人を結びつけた。
ルキアノスギリシャ語からラテン語への共訳。その風刺と諧謔の精神が「痴愚神礼讃」と「ユートピア」を生み出す。

狂信とドグマティズムを忌み嫌い、徹底した平和主義者として、いかなる聖戦も義戦もいずれも止めどない狂気に至ることを説いたエラスムス
普遍的超越性の道理を国家が踏みにじる愚挙に対して命がけで否を言い続けたモア

書簡の中で目に付くのは論争相手に対する反論である。気持ち的に仕方ないのかもしれないが、第三者の読者としてははくどく感じた(笑)。
その一方、エラスムスの年金支払いや馬の手配についての心配、モアの宮仕えの愚痴なども書かれており、両者の生活人としての苦労も垣間見せてくれている。

エラスムスの手紙の発信地をたどっていくと、オックスフォード、パリ?、ケンブリッジブリュッセルアントワープ、ルーヴァン、バーゼルアンデルレヒト、フライブルグ、とバラエティーに富んでいる。さすが現在、EU内部の留学プログラムが、エラスムス計画と呼ばれる所以である。

教皇ユリウス2世を諷刺した対話体の作品「天国から締め出されたユリウス」への言及もこの書簡内で行われている。エラスムスは否定しているが、その後の研究によって、この作品はエラスムスによるものとされるに至った。p94

最後の書簡は、モアの墓碑を含まれたものとなっている。
この時点で、ヘンリー8世の離婚問題への反対などで、死を覚悟していたことが伺える。

ユートピア」と「校訂版新約聖書」が上梓された「驚異の年」1516年を分水嶺として、その前後で時代の明暗を分けることとなる。
諷刺と批判の精神を育むと同時にそれを許容した明るく闊達な時代精神は陰ってゆき、代わって狭量で狂信的な暗い時代にヨーロッパは突入していく。
頑迷固陋な中世スコラ学を批判する解放的なルネサンス精神の躍如を見た時期が前者だとすれば、
それがあっけなくも失われ崩壊していくのが後者の陰鬱な宗教戦争の時代となる。p423

「名声」に当たるラテン語は「ファーマ」(fama)で、それはまた同時に「噂」や「飛語」を意味する。
すなわち書簡メディアのネットワークは、とんでもない陰口やスキャンダルや誤解の温床になりえた。p425